東藝術倶楽部瓦版 20180115:引き摺り餅に力餅、そして苦餅ー年末の「餅つき」にまつわるお話し

 

おはようございます。時の経つのも速いもので、年が明けてからすでに半月が過ぎようとしています。瓦版のテーマもいよいよ年末の話題になってきました。師走の話題も残すところあとわずかです。

 

さて、年末ともなると、我が故郷の佐久ではどこの家庭でも正月用の「餅つき」が年中行事の一つとして行われていました。私の実家でも大きな木の臼と杵があり、昨年亡くなった父が杵を振り上げて餅をついていたのを思い起こします。もちろん糯米(もちごめ)も自分の家の田んぼで植えており、育ってくると粳米(うるちまい)の稲とは一目で違いが分かるように一角を成していました。その餅つきが、子供にとってはまた一段と楽しい年末の行事でもありました。

 

この餅つきの起源は定かではありませんが、日本で稲作が興ったのは弥生時代といわれており、これもまた中国から伝来したものです。6世紀頃の遺跡からは蒸し器のような道具も見付かっていることから、すでに古墳時代には餅をつく風習があったものと思われます。古来日本では、餅はハレの日の食べ物として尊ばれており、「餅信仰」ともいうべき餅にまつわる昔話や伝統行事がたくさんあります。

 

江戸時代、師走も押し迫ると、江戸では町々で餅つきの光景が見られました。武家や大店(おおだな)、農家では昔から臼と杵で自分の家で餅をついていましたが、庶民の間では「餅つき屋」に頼んでついてもらうことが多かったようです。餅つき屋は臼、釜、蒸篭、杵、薪などの道具を担いで餅つきをして歩く業者で、一般的には4~5人でチームを組み、注文のあった家の前で威勢よく餅をついていました。これを「引き摺り餅(ひきずりもち)」と呼びます。この商売は明治時代まで続いていました。また、糯米を餅屋に渡してついてもらう「貸餅」というのもあったようです。

今では、自分の家で餅をつくことがほとんどなくなりました。正月用の餅もスーパーで買い求めることが主流になっています。佐久の我が実家でも、母が元気だった四、五年前までは自分の家で餅をついていましたが、今ではそれを受け継ぐ人もいなくなりました。秋田市周辺では、包みに入った平べったい大きな餅が毎年年末になると登場してきます。「のし餅」と呼ばれる餅ですが、秋田ではお汁粉としてたくさん食べる習慣があるそうで、切り餅ではなく、こうした巨大なのし餅が必要になるとのことです。

 

うどん屋のメニューとして、餅入りのうどんを「力うどん」として食べさせてくれるところがあります。餅は高カロリーなことから、昔から力の出る食べ物の代表格として、力仕事をする際にはよく食されていました。江戸時代の峠の茶屋でも「峠の力餅」なるものがあり、山越えをする旅人にも提供されていました。また、産後の滋養食や夏バテ対策の「土用餅」としても食されていました。

 

子供が満1歳を迎えた誕生日に一升餅を背中に背負わせ、部屋を一回りさせる風習が残っている地域がありますが、これはそうすることで、幼児の足腰が鍛えられ、しっかりと成長するようにとの願いを込めて行われる「力餅信仰」の一種とも考えられます。かつて、餅をつくこと自体が神様を招く行為であり、ひと臼目で神への供え餅を作るのが習わしでした。正月に飾るお供え餅として、その風習が受け継がれています。

 

ところで、昔から1229日だけは餅をつくこと、買うことを避ける風習があります。これを「苦餅」というそうで、「九」と「苦」の音が同じことから、一種の神事として捉えられていた餅つきも29日を忌み嫌うようになったのかもしれません。先ほどの秋田ののし餅のスーパーでの売れ行きも29日は若干落ちると言われています。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年1月15日 09:56に書いたブログ記事です。

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