東藝術倶楽部瓦版 20180116:泣く子はいねがー、親の言うこど聞がねこはいねがー「男鹿のナマハゲ」

 

おはようございます。一昨日から、日本の国技とされる大相撲の初場所が始まりました。横綱日馬富士の暴力事件や立行司式守伊之助のセクハラ事件など、ネガティブな話題で大荒れの相撲界でしたが、何とか無事に初場所を迎えることができました。神社での宮司殺害事件など、日本の伝統を守るべき世界でのこうしたトラブルは、まさに今の日本を象徴しているのかもしれません。

 

さて、本日のテーマは秋田県男鹿半島の村々に伝わる奇習、「男鹿のナマハゲ」を取り上げたいと思います。毎年1231日の大晦日の晩になると、男鹿半島周辺地域では、それぞれの集落の青年たちが「ナマハゲ」と呼ばれる鬼に扮して、「泣く子はいねがー、親の言うこど聞がね子はいねがー」、「ここの家の嫁は早起きするがー」などと大声で叫びながら家々を巡る風習があります。この風習は昭和53年(1978年)に「男鹿のナマハゲ」として国の重要無形民俗文化財に指定されました。

 

このナマハゲは、本来は鬼ではなく、怠け心を戒め、無病息災や田畑の実り・山の幸・海の幸をもたらす来訪神であるとされています。片手に包丁、もう一方の手に手桶などをもって家々を訪ね、ウォーウォーと奇声をあげると、正装した家の主人がナマハゲを迎え入れます。家に入ったナマハゲは、先ず神棚に礼拝した後、家の中の子供や嫁を諌めながら躍り上がって歩き回り、酒と餅が供されると、酒だけ飲んで餅は従者に持たせ、次の家に向かいます。

 

男鹿市内のナマハゲの行事は、江戸時代には旧暦の小正月、1月15日に行われていましたが、明治の改暦で新暦1月15日に実施されるようになり、戦時中は一時中断され、戦後になって2週間ほど前倒しされ大晦日に行われるようになりました。

 

ナマハゲの語源ですが、冬、仕事もせずに囲炉裏で長く火にあたってばかりいる怠け者には、手足に火斑(ひだこ)がつくと言われ、この火斑のことを男鹿の方言で「モナミ」と呼んでいます。怠け心を戒めるための「モナミ剥ぎ」が「ナマハゲ」になったと言われています。ナマハゲの持つ包丁は、このモナミを剥ぐための道具というわけです。

 

このナマハゲの起源については「漢の武帝説」、「修験者説」、「山の神説」、「漂流異邦人説」など諸説が語り伝えられています。漢の武帝説というのは、中国の漢の時代、武帝が不老不死の薬草を求めて男鹿にやってきた際に、従えていた5匹のコウモリが鬼に変身し、正月15日だけ休みをもらい村里に降りてきて作物、家畜、娘をさらい、暴れ回っていたのを、村人が知恵を使って追い返したという話が基になったものです。修験者説は、修験道の霊場として有名な男鹿の本山・真山で修行していた修験者の凄まじい姿をナマハゲとして考えたというものです。山の神説は、遠く海上から男鹿を望むと、日本海に浮かぶ山のように見え、その山に村人の生活を守る山の神が鎮座するところとして畏怖され、山神の使者がナマハゲであるというものです。漂流異邦人説は、男鹿の海岸に漂流してきた異国の人の姿・言語に驚きナマハゲとした説です。

 

ナマハゲに関する記録で最古のものは江戸時代の紀行家、菅江真澄〔宝暦4年(1754年)~文政12年(1829年)〕が文政5年(1822年)に秋田藩の藩校・明徳館に献納した『菅江真澄遊覧記』の「牡鹿之家かぜ」で、そこには文化8年(1811年)1月15日に男鹿の宮沢で行われた小正月行事としてナマハゲのモナミハギの様子が絵とともに詳細な解説が記されています。

 

このナマハゲの行事も、少子高齢化や生活スタイルの変化などによって後継者が不足し、年々行う地域も減ってきているようですが、地元自治体などではナマハゲを観光化するなど、保存に向けた動きもみられます。

高見澤

 

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年1月16日 10:07に書いたブログ記事です。

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