東藝術倶楽部瓦版 20180227:勉強会に向けてその⑩-江戸城の櫓

 

おはようございます。今朝の東京都心は晴れ。まだまだ寒い日が続きますが、何となく徐々にですが暖かくなっているような気がします。花粉症の方は、少しずつ症状が出始めているようです。

 

さて、本日は「江戸城の櫓(やぐら)」について紹介していきたいと思います。「櫓」とは、一般には木材などを組み上げた足台のことを指します。しかし、城郭でいうところの櫓は、城郭の要所に建てられた監視や司令のための一段高い建物(高楼)を指します。天守とは異なり、城としての象徴性よりも実用的な要素を備えた建物で、武器庫としても使われていました。

 

櫓の由来については、①物見としての建物とする説、②「矢倉」や「矢蔵」を語源とした武器庫とする説、③「矢の坐」として弓を射る場所とする説があります。江戸時代になると、武器だけではなく、塩や味噌、薪、炭など生活に欠かせない必需品の保管庫にもなっていたようです。

 

また、戦いがあるときには、天守を守るための拠点とする重要な役割もありました。シンボルである天守が落ちてしまえば戦に負けたことになるので、天守と櫓を連結させた「複合式天守」、「連結式天守」といった配置にした城郭も少なくありません。

 

櫓といっても様々な形があります。平屋建ての「平櫓」、二階建ての「二重櫓」、三回建ての「三重櫓」、重箱のような「重箱櫓」、長屋作りの「多門櫓」、櫓と櫓をつなぐ「渡櫓」なのです。また、曲輪の角を利用して建てられた「隅櫓(角櫓)」や、二十四方位を示す「巽(辰巳)櫓」のように、場所を示す名前を付けた櫓もあります。

 

かつて、江戸城にも多くの櫓がありましたが、度重なる火災によって何度も焼失し、その度に再建されるなど、時期によって存在していた櫓の数は異なっていました。数多くあった櫓の中で、現存するのは本丸の「富士見三重櫓」、三の丸の「桜田巽二重櫓」(下写真)、西の丸の「伏見二重櫓」です。

 

下の表は、江戸城にあった隅櫓の一覧です。時代によって変化していますので、これらの櫓が全て一時期に揃っていたわけではありません。

 

明暦の大火〔明暦3年(1657年)〕で寛永度天守が焼失した後、天守は再建されずに、本丸富士見櫓が実質的に天守の役割を果たしていたことは、以前にもご紹介した通りです。

 

高見澤

 

 

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年2月27日 08:47に書いたブログ記事です。

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