2018年3月アーカイブ

 

おはようございます。満開の桜も散り始め、いよいよ来週からは4月、新年度が始まります。会社組織や役所では人事異動が行われ、新年度の体制に向けた担当者交代の挨拶に訪れる方も少なくありません。お世話になった方ばかりなので、一人一人に対して丁寧に対応する必要があり、それだけでも1日の大半の時間を要してしまいます。これが朝早くと夜遅く、或いは休日を使ってデスクワークに集中せざるを得ない理由の一つでもあります。

 

さて、本日からは江戸時代の日本を支配してきた「江戸幕府」について紹介していきたいと思います。今回のテーマは「江戸幕府とは?」です。日本で最初に「幕府」が開かれたのは、皆さんもよくご存知の源頼朝による「鎌倉幕府」で、それに続くのが足利尊氏による「室町幕府」です。「幕府」というのは、一般的には武家の最高権力者(征夷大将軍)を中心とした政治組織のことを指します。幕府の語源も中国に由来しています。「幕」は将軍が座する「天幕」を意味し、「府」は古代中国で官物や財貨を収蔵した場所を指します。ただ、この幕府という呼称は、実は江戸時代中期以降に朱子学の影響によって学者の間で使われ始めた概念で、鎌倉幕府、室町幕府という呼び方もこの頃から使われていました。当時の人はこの武家政権を幕府とは呼ばず、「公儀」と呼んでいました。こうした意味から、現在の歴史学者の間では、鎌倉幕府の成立時期に対して論争が生まれています。

 

とはいえ、ここでは便宜上、徳川将軍家による武家政権を「江戸幕府」ということで進めていきたいと思います。江戸幕府の成立は、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた慶長8年(1603年)です。以後、徳川家の当主が正二位内大臣兼右大臣に任ぜられ、290余りの武家大名と主従関係を結んで行われる統治体制、いわゆる封建体制が、大政奉還が行われた慶応3年(1867年)まで続きました。幕末期には、徳川政府を「幕府」、臣従している大名家を「藩」として、「幕藩体制」と呼ばれるようになり、これが今では一般的に使われるようになっています。

 

幕藩体制の基本は、幕府と各藩との間の忠義の精神に基づく協力・連携が重要になります。将軍は大名に対して朱印状を与えて知行を保障し、大名は知行内において独自に統治を行う権限を一程度有していました。当時は「幕府」に対して「公儀」と呼んでいたように、「藩」ではなく「領」、「領分」、「領知」と呼ばれていました。幕藩体制下での将軍と大名との主従関係を確認するために、諸藩の大名に課せられていたのが軍役としての参勤交代であり、築城・治水工事などの手伝普請でした。

 

幕府の基本的な政治体制は老中をはじめとする幕閣によって行われるもので、権力の集中を避けるために主要な役職は複数名を配置、月番制による政務の担当、重要な決定事項の合議制などの措置がとられていました。この具体的な体制については、後日ご紹介したいと思います。もちろん、家康、家光(3代)、綱吉(5代)、吉宗(8代)、家斉(11代)など親政を行っていたとされる将軍もいますが、行政組織なくして事が動かないのも確かです。

 

幕府自身も「公儀」として国内全体の統治を行うとともに、1大名として領分(天領、御領)を支配し、京都所司代、大坂城代、遠国奉行(おんごくぶぎょう)、郡代・代官などの地方官を設置しました。


高見澤

 

おはようございます。先週出張前に桜の開花宣言を聞いたばかりなのに、先週末出張中に東京では桜が満開となっているとのニュースを耳にしました。確かに、我が職場に近い皇居北の丸の桜並木はものの見事に咲き誇っており、終日花見客で賑わっています。

 

さて、本日のテーマは「外に広がる江戸の都市化」です。現在の東京の中心部の多くが海辺を埋め立てられて造られたことが、これまでの説明でお分かりいただけたかと思います。このため、井戸を掘っても生活に十分な真水を得ることができず、江戸幕府にとっても水の確保が重要な課題となります。

 

そこで、もともと赤坂にあった溜池が活用されるとともに、井の頭池を水源とする神田上水が寛永6年(1629年)に整備されます。その後、江戸の人口が増えてくると、これだけでは供給不足となり、承応2年(1653年)に玉川上水が造られました。この辺りのお話は、すでに「江戸の上水」のテーマで紹介しましたので、ここでは省略します。

 

寛永13年(1636年)に外堀が完成することで、江戸の都市造りが一段落することになります。しかし、その後も人が更に流入して人口がますます増えていきます。そのために、町の再開発を行い、更には町を外へ拡大する必要が出てきます。そんな折に起きたのが明暦3年(1657年)の明暦の大火です。明暦の大火については、別途説明の機会を設けますが、これによって江戸の町の大部分が焼失し、江戸城天守も炎上してしまいました。



この明暦の大火以降、火事をできるだけ防げるような都市設計が行われ、江戸城西の丸内の吹上に置いていた徳川御三家の屋敷も半蔵門外の紀尾井町に移設するなど、大名屋敷の配置も大きく換えられ、類焼を防ぐための火除地として広い空地や庭園が各地に設けられることになりました。江戸の町も外堀を越えて外側に広がります。隅田川対岸の深川、永代島へと都市化が進むのは、この頃からです。

 

家康以降のこれまでの江戸の町造りの流れを追うと、以下のようになります。

 

慶長から寛永年間(1596年~1644年)までは、江戸城を中心として多くの町が造られ、これらは「古町」と呼ばれ、約300町ありました。明暦の大火以降、新たな年計画が立てられ、京橋木挽町東の海洲部分や赤坂・小日向などの湿地が埋め立てられ、本所深川の開発が始まります。江戸が発展するための基礎が出来上がるのはこの頃です。芝・三田・飯倉から下谷・浅草に至る街道筋の代官支配地に建設された町屋が、「町並地(まちなみち)」として町奉行支配地に組み込まれるのが寛文2年(1662年)頃で、江戸の総町数は674町となります。

 

延宝年間(1673年~1681年)にはほぼ江戸の原形が出来上がります。北は千住から南は品川まで町屋が続き、いわゆる「大江戸」がここに出現します。従来は二里四方とよばれた江戸の町も、この頃には四里四方といわれるまでに拡大しました。正徳3年(1713年)には本所・深川一体や山の手の町屋を町並地として組み入れ、この頃の総町数は933町となりました。延享年間(1744年~1747年)には、町地の強制移転により「代地町(だいちまち)」が増加します。また、居住町人の増加によって、寺社門前町が町奉行の支配下に置かれ、総町数も1,678町までに大きく膨れ上がりました。こうして江戸は世界最大の都市へと、その地位を高めていったのです。

 

高見澤

 

おはようございます。昨晩、北京から戻ってきました。週末を挟んで3日間、終日中国語と英語に曝され、ホテルに戻れば夜なべをして報告メモを作成し、代休もとらずに本日も朝から出勤です。北京では「釣魚台国賓館」とう迎賓館で会議を行っていたのですが、最終日、急遽会場が変更になり、食事も含め一番南端の14棟での開催となりました。本来であれば北端の5号棟も利用することになっていたのですが、外国からの国賓の宿泊場所となる18号棟の脇を通らなければならず、まさに当日はそこが閉鎖され、厳重な警備態勢が敷かれていました。北京市内のメイン道路である長安街も交通管制が行われ、長時間にわたって反対車線の一般車両の通行が止められていました。何かあったのかと思っていた矢先に、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の訪中可能性の報道を耳にし、歴史的事件のタイミングに巡り合った自分の運命の不可思議さに奇妙な因縁を感じた次第です。

 

さて、本日は「江戸の寺社の配置」について、紹介していきたいと思います。江戸をはじめとする城下町において、武家地、町地とともに寺社地が大きな範囲を占めていましたが、もちろん江戸でも寺社地は比較的広範囲でした。

 

これら寺社地は、風水の要素が多分に考慮されて配置されています。そもそも家康によって江戸の地が選ばれた一因の一つが、北の「玄武(山)」として麹町台地、東の「青龍(河川)」として平川(神田川)、南の「朱雀(海、湖沼)」として日比谷入江、西の「白虎(大道)」として東海道があり、「四神相応(しじんそうおう)」の地であったからだと言われています。

 

この四神相応については、また改めて紹介していきたいと思いますが、この考え方も中国から伝来したもので、韓国や日本でも取り入れられ、平安京もまたこれに基づいて都市造りがなされています。江戸の町が拡大すると、玄武には本郷大地、青龍には大川(隅田川)、朱雀には江戸湾、白虎には甲州街道がそれぞれ対応することになります。確かに、北半球での風の方向や日当たりなどを考えると、こうした地形は気が自然に流れるような感じを受けます。

 

江戸は、この四神相応に加えて、忌むべき方位としての「鬼門」、「裏鬼門」への対応も考慮した寺社の配置がなされています。陰陽道では、鬼が出入りする方角で万事に忌むべき方角とされる「艮(うしとら)」の方角、すなわち北東を鬼門としており、鬼門とは反対の「坤(ひつじさる)」の方角を裏鬼門として忌み嫌う考え方があります。この鬼門から裏鬼門が邪気の通り道とされています。

 

関東を代表する怨霊である平将門〔出生年不詳~天慶3年(940年)〕を祀る「神田明神」は、現在の将門の首塚がある江戸城大手門前から江戸城の鬼門にあたる駿河台へと移設され、江戸総鎮守として奉じられました。また、江戸城の建設に伴い、城内にあった「山王権現(日枝神社)」を裏鬼門である赤坂へと移しました。

 

更に、家康の側近でブレーンとされる天台宗の僧・南光坊天海〔天正5年(1536年)~寛永20年(1643年)〕が江戸城の鬼門にあたる上野忍岡(しのぶがおか)を拝領し、京の鬼門封じとされる比叡山延暦寺に倣って堂塔を建設、寛永2年(1625年)に「寛永寺」を開山します。その反対の裏鬼門に配置されているのが「増上寺」というわけですが、もともと江戸貝塚(千代田区紀尾井町)にあったこの寺が江戸城の裏鬼門にあたる現在の芝に移設されたのは慶長3年(1598年)とされています。鬼門の前に裏鬼門を封じるという点が疑問に感じるところですが、結果的に鬼門封じ、裏鬼門封じの形が出来上がっているところに驚かざるを得ません。

 

高見澤

 

 

おはようございます。明日3月23日から来週27日まで北京に出張してきます。その間、瓦版もお休みさせていただきますので、ご理解の程、よろしくお願い致します。今回の出張は、「中国発展ハイレベルフォーラム」という中国の政府系研究機関「国務院発展研究センター」が主催する国際会議に、私の所属する組織の理事長が正式メンバーとして招待されており、それに随行する(かばん持ち)ものです。24日から26日までの週末を挟んだ3日間、釣魚台国賓館(迎賓館)に閉じこもりとなり、英語ないしは中国語で中国を巡る国際情勢を議論し合うハイレベルな国際会議です。IMF(国際通貨基金)やOECD、世銀、ADB(アジア開銀)の事務総長や総裁、ロイヤル・ダッチ・シェルやプルデンシャル、ネッスル、グーグル等世界に名立たる大手企業のCEO、ジェームス・ヘックマン、マイケル・スペンス、ジョセフ・ステグリッツといったノーベル経済学賞受賞者をはじめとする著名な学者が出席します。ただ聞いているだけの会議ですが、報告をまとめなければならないこともあり、帰国後はかなりヘトヘトになっていることでしょう。

 

さて、本日は「家康後の江戸の町造り」をテーマに話を進めていきたいと思います。豊臣氏を滅ぼし、盤石な政権の基盤を固め、江戸の町が後に拡大できるような形で整備を行った家康が元和2年(1616年)に亡くなります。将軍職は慶長10年(1605年)に既に嫡男秀忠に譲っていましたが、「駿府の大御所」として家康が実権を握っていました。家康の死後、二代将軍秀忠、三代将軍家光と引き続いて江戸城の大改築と江戸の町造りが進められていきます。

 

秀忠は江戸の北東の守りを固めるために、小石川門の西から南に流れていた平川を東に流す改修工事を行います。現在の水道橋から万世橋に至る本郷から駿河台までの神田台地は掘り割って人工の谷を造成し、そこから西へは元々隅田川に流れ込んでいた中川を利用して浅草橋を経由して隅田川に流れ込むようにしました。これが江戸城の北の外堀となっている神田川です。この工事によって平川下流にあった一ツ橋、神田橋、日本橋を経て隅田川に至る川筋は神田川(平川)から切り離されて、江戸城の外堀と内堀の間のもう一つの堀になりました。この堀は、明治時代に再び神田川とつなげられて、神田川の支流である現在の日本橋川になります。

 

三代将軍家光の時代には、江戸城の西側の外郭の整備が行われます。溜池や神田川に注ぎ込む小川の谷筋を利用して溜池から赤坂、四ツ谷、市ヶ谷を経て牛込に入り、神田川につながる外堀を整備しました。この工事は、全国の外様大名を大きく動員して行われ、外堀が完成するのは寛永13年(1636年)でした。上図の御成門から浅草橋門に至る江戸城の「の」の字の外側部分にあたります。これにより、江戸の町の防御、運河による輸送路、生活用水の確保といった街造りのための基本的なインフラが整うことになったのです。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は、1日腰を温めて休んでいたおかげで、だいぶ楽になりました。冷やして血行が悪くなっていたことが原因かと思います。今朝は多少の痛みは残っていますが、問題なく動けるまでには回復しました。気持ちは若いつもりでも、身体がいうことをききません。

 

さて、本日は「家康の江戸の町造り」についてお話ししていきたいと思います。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、西軍(豊臣方)の総大将・石田三成を打ち破った徳川家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任ぜられます。征夷大将軍とは、令外官(律令の令制の規定にない新設の官職)で、古代は蝦夷地(東北地方)の鎮撫のために臨時に編成された遠征軍の指揮官を指していました。延暦13年(794年)に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)〔天平3年(731年)~大同4年(809年)〕が任ぜられたのが最初で、その後は有名な坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)〔天平宝字2年(758年)~弘仁2年(811年)〕が就任しています。これが建久3年(1192年)に源頼朝が任命されて以降は武士の頭領、武家政治を司る幕府の主宰者の職名となり、足利氏、徳川氏と引き継がれて、それぞれ世襲していくことになります。

 

征夷大将軍となった家康はその年に江戸幕府を開きます。そして、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、同20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川氏による天下がここに成立しました。

 

前回ご紹介した道三堀が完成すると、隅田川河口から江戸城の傍らまで、城の建造に必要な木材や石材を搬入のための運河として利用され、道三堀の左右に舟町が形成されます。現在の常盤橋門外から日本橋の北側かけては元々平地であったこともあって町人の町が出来上がりました。また、江戸城南側の芝、北側の浅草、西側の赤坂や牛込、麹町にも町屋が発展していきました。

 

江戸の町の一番の特徴は、「の」の字型に設計されていたことです。江戸城の本城は大手門の内側にある本丸や二の丸、西の丸大手門の内側にある西の丸などの内郭内に将軍や嗣子・大御所が居住する御殿が造られ、その西側に半蔵門内の吹上に当初は御三家(尾張家、紀伊家、水戸家)の屋敷が置かれました。内濠の外側では、東の大手門下から和田倉門外にかけて譜代大名の屋敷、南の桜田門の外側には外様大名の屋敷が配置されました。また、西側の半蔵門の外側から一ツ橋門、神田橋門外に至る台地には旗本・御家人の屋敷が置かれ、武家屋敷や大名屋敷の東側にある常盤橋、呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋から隅田川、江戸湾に至るまでの日比谷入江の埋め立て地方面には町地が拡げられていきました。つまり、大手門から数寄屋橋に至るまで「の」の字の濠の内外に将軍、親藩、譜代、外様、御家人・旗本、町人が配置されていることが分かります。驚くべきことは、この「の」の字の渦巻きがさらに拡げられるような構造に設計されていたことなのです。


高見澤
 

おはようございます。昨日から腰痛に悩まされ、本日は休養を取ることにしています。先ほど、職場にはその旨連絡をしたところです。明日の理事会を控え、本来であれば休んでいる訳にはいかないところですが、身体がいうことをききません。こんなときは「休め」ということなのでしょうね。

 

さて、本日の「江戸の町造り」は、いよいよ徳川家康の時代に入っていきます。天正18年(1590年)、豊臣秀吉によって後北条氏が滅ぼされると、家康は御北条氏が支配していた関八州(相模、伊豆、武蔵、上総、下総、上野、下野の一部、常陸の一部)へと移封させられます。そのとき、家康が居城として選んだのが江戸でした。当時の江戸城は太田資長が築いたままの小さな城で、徳川家が移り住むには適切ではありませんでした。多くの家臣を引き連れてくるのですから、手間暇を考えれば旧来ある程度整備されている小田原か鎌倉なとの地を選ぶのが常識です。後の徳川家の発展を考えれば、江戸を居住地と選んだのが、常識にとらわれない家康の深謀遠慮がそこにあったのかもしれません。

 

当時の江戸は、目前には海が迫り、江戸湾沿いの一帯は多くの汐入地が点在し、満潮になれば海水が入り込み、潮が引けば葦や萱などが生い茂る湿地帯になっていました。後背地には武蔵野の山や林に覆われた原野が広がり、平坦な土地は少なく、とてもではありませんが多くの人が生活できるような場所ではなかったようです。とはいえ、最近の扇谷氏や御北条氏の記録や古文書の研究から、江戸は家康入府以前から交通の要衝としてある程度発展していたのではないかとの見方もあるようです。しかし、家康が江戸入府以降、大規模な江戸の町造りを始めたことは確かです。

 

天正18年8月1日(旧暦)、いわゆる「八朔」の日に家康は駿府から江戸に居を移します。家康は、江戸城本城の拡張は一程度に留め、まずは城下町の建設を進めたといわれています。江戸城を本格的に拡張するには、普請に携わる町民を集め、住まわせる必要があったからでしょう。江戸城和田倉門から隅田川まで道三堀を穿ち、そこから出た土で江戸城の目の前に広がっていた日比谷入江を埋め立て始め、その後、神田山(大手町から駿河台にかけての一帯)を削り、日比谷入江や数多くあった汐入地を埋め立てて町を広げました。また、平坦になった神田山の跡地も人が住める土地になりました。現在も高台の神田駿河台は切り崩された神田山の名残です。日比谷入江の東、隅田川河口の西には「江戸前島(えどまえとう)」と呼ばれる砂州があり、当時は半島になっていましたが、日比谷入江が埋め立てられることによって地形が大きく変わり、半島ではなくなってしまいました。

 

 

家康は上水道の整備も積極的に行いました。平川(神田川下流)は江戸市中へ物資を運ぶ輸送路でもあり、江戸城を守る濠(外濠)としても利用され、神田山を切り崩した際に平川を隅田川に合流させ、江戸市中に水を運ぶ上水・小石川上水(後の神田上水)として活用したのです。これが神田上水として完成するのは3代将軍家光の時代ですが、水源は湧水に恵まれ水量が豊富な吉祥寺村の井の頭池です。また、当時は今の行徳(千葉県市川市南部)が塩の産地であったことから、道三堀に加え小名木川(おなきがわ)などの運河が造られ、塩や米を運ぶ重要な水上輸送路として活用されました。その後、江戸城も拡張され、本丸、二の丸、三の丸、西の丸などが築かれることになります。江戸城の周りには多くの濠割が造られ、敵からの防御に加えて、水上輸送が便利になり、商業都市としての発展の基礎がここに出来上がることになります。

 

文禄3年(1594年)、家康は隅田川で最初の橋である千住大橋を架けます。明暦3年(1657年)の明暦の大火で多数の死者を出すまでは、江戸の防御のためにこの橋以外に隅田川に橋を架けることは禁止されていました。明暦の大火後に隅田川に架けられた2番目の橋が両国橋です。江戸の橋については、また特集を組んで説明していきたいと思います。こうして、家康の天下取りに向けた拠点造りが始まっていくのです。


高見澤

 

おはようございます。今、学校法人「森友学園」への国有地売却を巡って、国会並びに財務省が揺れに揺れています。決裁文書の改ざんや国会答弁での虚偽報告は絶対にあってはならいこととして、一般に認識されているにもかかわらず、こうしたことが日常茶飯事に行われていたとしたら、国民の政府に対する信頼は一気に地の底に堕ちてしまうでしょう。これもまた日本にうごめく大きな膿として、出し切ってしまうことも必要なのかもしれません。

 

さて、本日も「江戸時代より前の江戸」をテーマに、前回の続きでお話しを進めていきます。太田資長(太田道灌)は、江戸城を築いてからも扇谷上杉家のために力を尽くして、主家の勢力を大きく伸ばしていきます。そのために、資長の信望も高まっていきます。資長は、資長の勢力が大きくなることを恐れた主家の上杉(扇谷)定正によって暗殺されてしまいます。それが文明18年(1486年)のことでした。資長の死後、扇谷上杉家は次第に勢力を失っていくことになります。

 

扇谷上杉家の没落を決定的なものにしたのが、大永4年(1524年)に武蔵国高輪原(現東京都港区高輪)で起きた「高輪原(たかなわはら)の戦い」です。北条早雲の死後、御北条家二代当主となっていた北条氏綱は、相模国小田原を拠点に武蔵方面への勢力拡大を図っていました。氏綱は扇谷上杉家の家臣に対する調略を進め、同家家臣で江戸城代であった太田資高(資長の孫)を寝返らせることに成功します。これに乗じて氏綱は武蔵への進行を開始し、当時扇谷上杉家の当主であった上杉朝興はこれを迎え撃つために大軍を擁して高輪原に進出しました。当初は一進一退の激しい戦いでしたが、最終的に上杉軍は北条軍に敗れて江戸城に撤退します。しかし、江戸城を支えることも叶わず、最後には江戸城を放棄して河越城に逃げ込み、この合戦は北条軍の勝利に終わりました。これによって江戸城は北条氏の支配下に移りました。

 

当時、すでに相模国と伊豆国を支配していた北条氏(後北条氏)による江戸支配は、関東における戦国大名の勢力図を大きく変えることになりました。すなわち、江戸湾(東京湾)の西半分が完全に北条氏の支配下になってしまったのです。これ以降、天正18年(1582年)に北条氏が豊臣秀吉によって攻め滅ぼされるまで、北条氏による支配が続きました。ただ、北条氏時代には、江戸は最重要な支城とはみなさされていなかったようです。江戸城も太田資長時代の粗末な造りのままでしたが、それでも江戸は関東南部の要衝であったことは間違いありません。

 

 

高見澤

 

 


 

おはようございます。今週に入り、本当に暖かくなりました。今朝もコートを着ることなく、寒さを感じずに出勤することができました。最近の日本は、暖かくなると一気に気温が上昇し、春を感じる暇もなく夏になるといった感覚を覚えるのですが、皆さんは如何でしょうか? 北京での季節感が、まさにそのような感じです。春と秋は2週間もなかったと感じていました。

 

さて、本日も前回に続き、「江戸時代より前の江戸」を紹介していきたいと思います。前回は、太田資長が江戸に入ったところまででしたね。資長は室町時代の永享4年(1432年)、関東管領扇谷上杉家の家臣・太田資清(おおたすけきよ)〔応永18年(1411年)~長享2年(1488年)〕の子として相模国に生まれました。幼少の頃は鎌倉の建長寺で学び、後に栃木の足利学校でも学んでいます。資長は文武両道に秀でた人物であったといわれています。

 

南北朝で南朝側についた江戸一族を含む秩父一族は、室町時代に衰退の一途をたどります。江戸氏が支配していた江戸の地は、人家もまばらな荒涼たる土地になっていったようです。江戸資継が築いた城館も朽ち果てていました。この荒廃した地に目を付けたのが資長です。江戸氏は資長に追われ、現在の世田谷区喜多見に退きました。当時、江戸は茫漠の地でしたが、資長はこの地の戦略上・戦術上の優位性に目を付け、長禄元年(1457年)に江戸城を築城しました。そしてこの城を拠点として南関東一帯を治めるようになります。

 

資長が江戸に注目した点として、江戸が奥羽へ通ずる要衝の地であること、荒川があることによって水運の便に恵まれていること、荒川はまた敵の侵入を防ぐ自然の要害になっていることなどが挙げられます。車のない時代、川を利用した水運や海での海運は物資の輸送に欠かせない重要な交通手段でした。当時は浅草湊、江戸湊、品川湊などの中世武蔵国を代表する湊があり、これらは利根川や荒川の河口に近く、北関東の内陸部から船を用いて鎌倉、小田原、西国方面に出る中継地点になっていたようです。

 

江戸の開発は、平安時代後期に武蔵国の秩父地方から河越(川越)を通って入間川沿いに平野部へと進められてきました。資長が江戸城を築いた当時、江戸城の北側を流れる平川沿いに、平川の村を中心に城下町が形成されていったものと思われます。戦国時代には「大橋宿」という宿場町が形成され、更には江戸城と河越城を結ぶ川越街道や小田原方面へ向かう矢倉沢往還(やぐらさわおうかん)もこのころに整備されたと考えられています。

 

江戸城を築いた資長は、精勝軒という櫓を建てています。その場所は現在の富士見櫓の場所とされていますが、「わが庵は松原づづき海近く、富士の高嶺を軒端に見る」と詠っているように、日比谷の入り江が江戸城の間近にあったことが分かります。

 

ところで、道灌という名前ですが、これは資長が入道した後の法名で、正式には「春苑道灌」と称していました。太田道灌といえば、「山吹伝説」のお話しがあります。道灌が狩りの途中で越生(おごせ、現在の埼玉県越生町)の地に差し掛かったとき、突然にわか雨が降り出しました。そこで蓑でも借りようと一軒の農家に立ち寄ったところ、一人の娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出しました。道灌は蓑の代わりに花を出されたと立腹し、その農家を立ち去ります。帰宅後、その話を家臣にしたところ、それは「後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)」にある兼明親王(かねあきらしんのう)〔延喜14年(914年)~永延元年(987年)〕の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」という歌にかけて、貧しきがために蓑一つ持ち合わせていないことを奥ゆかしく答えたのだということを知ります。道灌は自分の教養の無さを恥じて、以後歌道に励んだという逸話です。

 

まだまだ「江戸時代より前の江戸」は続きます。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝は午前中、経済産業省で会議があるため事務所には立ち寄らず、直接霞が関に向かいます。今年度の事業報告の作成と来年度の事業計画作り、各方面の情報収集と相変わらず忙しい日々を過ごしています。

 

さて、本日は「江戸時代より前の江戸」の歴史をたどってみたいと思います。「江戸」という地名が、日本の文献上で初めて登場するのは鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』とされています。

 

平安時代中期、930年頃に成立したとされる『和名類聚抄』には、今の東京都心の辺りを示す地名として豊嶋郡に「湯島郷」や「日頭郷」、荏原郡に「桜田郷」が存在していたことが記されています。湯島郷は今の文京区湯島、日頭郷は同区小日向、桜田郷は千代田区霞が関であったと考えられています。当時、江戸という地名があったかどうかは記されていないので分かりません。

 

平安末期、この地域を拠点としていたのは桓武平氏の流れをくむ秩父一族でした。武蔵国秩父郡中村郷で秩父氏を名乗った平将恒(たいらのまさつね)〔寛弘4年(1007年)~天喜5年(1057年)〕を源流とする一族です。秩父一族は、秩父から江戸湾に至る入間川(現荒川)沿いの一帯を支配し、武蔵国で大きな勢力を誇っていました。将恒から数えて4代目の当主である秩父重綱(生没年不詳)の四男・重継(生没年不詳)は、秩父地方を出て武蔵国江戸郷に移り、桜田の高台(本丸、二の丸辺り)に城館を構えます。これが後に江戸城へと発展していきます。重継は江戸の地名をとって「江戸太郎」を名乗り、江戸氏を興します。

 

こうした記録から、平安末期には「江戸」の地名があったものと考えられています。この江戸の地名の由来については諸説あります。「江」は川、或いは入江、「戸」は入り口の意味で、「江の入り口」を由来とする説、「戸」は港町の名称に使われることがあることから「江の港」とする説などがあります。当時は、「日比谷入江」と呼ばれる入り江が、後の江戸城の近くまで入り込んでいました。

 

当時の江戸の地形は、今とは大分異なっていました。日比谷入江のように、海がかなり内陸まで入り込んでいて、たくさんの小島があったそうです。当時の浅草も目の前が海で、浅草寺は江戸湾に浮かぶ小島のような地形の中にあったと言われています。推古天皇36年(628年)、宮戸川(みやこがわ)(現隅田川)で漁をしていた檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が網にかかった観音像を見付け、これを祀ったのが浅草寺の始まりとされています。その後、大化元年(645年)に勝海上人(しょうかいしょうにん)によって浅草寺が開基されます。平安時代の天慶5年(942年)には、雷門や仁王門が作られたと伝えられています。

 

治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると、重継の子・重長(生没年不詳)は、当初平家方として頼朝方の三浦氏と戦っていましたが、その後頼朝に帰服し、鎌倉幕府の御家人となりました。鎌倉幕府滅亡後、江戸氏一族は南北朝の騒乱で新田義貞に従って南朝方につきましたが、その後室町時代に次第に衰退していきます。江戸氏は、戦国末期にその活動拠点を多摩郡喜多見に移していたようです。

 

江戸氏に代わって江戸の地に入ってきたのが、関東管領上杉氏の一族・扇谷上杉家の家宰であった太田資長(おおたすけなが、太田道灌)〔永享4年(1432年)~文明18年(1486年)〕です。この続きは次回、紹介致します。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は晴れ、寒さも大分和らいできたようで、いよいよ桜の花の気配を感じる季節になってきました。わが職場の近くにある靖国神社には、気象庁が桜の開花を判断する標準木があります。また、先日の江戸城勉強会でも歩いた千鳥ヶ淵は日本有数の桜の名所になっています。

 

さて、本日からは新たなシリーズとして「江戸の町作り」についてお話をしていきたいと思います。最初のテーマは「江戸の範囲」です。江戸時代は徳川将軍家を中心とする「封建体制」がとられていたことは、皆さんもよくご存知のことと思います。ところで、この封建体制とはどのような仕組みなのでしょうか? 簡単に言えば、君主の下に、諸侯に土地が与えられ、諸侯が領有する土地とそこに住む住民を統治する政治・社会制度のことです。そして諸侯が領有する以外の土地が君主の直轄地になります。ですから、江戸の町全体の土地の所有権は徳川将軍家にあり、何事においても江戸幕府の都合が最優先され、すべて将軍家のお城を中心に考えられていたのです。

 

城下町としての江戸は武家地、寺社地、町地の3つに区分されていました。江戸城の周囲には大名や旗本・御家人の屋敷が並んでおり、武家地は江戸全体の約6割を占めていました。大名屋敷ともなると数千~数万坪、しかも参勤交代の際に藩主が居住する上屋敷、隠居後や嗣子が住む中屋敷、郊外の別荘にあたる下屋敷と3つの屋敷を構えるのが通例でしたから、江戸の面積の大半が大名屋敷であったことがよく分かります。

 

「八万騎」と称される旗本・御家人もそれぞれ屋敷を構えており、1,000カ所以上の寺社が数百~数万坪の境内をもっていたので、町民の居住のためにあてられた土地はほんのわずかなところでした。武家地が6割であるのに対し、寺社地が約2割、町地は残りの約2割であったといわれています。

 

町地は俗に「大江戸八百八町」と呼ばれていましたが、これは江戸の実際の町数ではなく、江戸という都市空間に多くの町があったことを喩えた言い方です。天正18年(1590年)に徳川家康が入府した頃の江戸は広大な武蔵野の一寒村にすぎず(交通の要所ではあったようですが)、入江が深く入り込んだ低湿地が広がっていました。江戸の町作りが始まった当初、慶長年間から寛永年間(1596年~1644年)ころの町数は約300町ほどでした。その後徐々に町が広がり、寛文2年(1662年)には674町、延宝年間(1673年~1681年)にはほぼ江戸の原形が出来上がります。北は千住から南は品川辺りまで町屋が続く「大江戸」が出現し、それまでは「二里四方」と呼ばれていた江戸の町も、この時期に「四里四方」といわれるまでに拡大しました。正徳3年(1713年)には933町、八百八町を超え、延享年間(1744年~1747年)には何と1,678町まで膨れ上がりました。江戸の町が広がりこれだけ町数も増えていきましたが、それでも町地は面積からすればきわめて限られた範囲であったことが分かります。

 

江戸のそれぞれの地域を管轄する行政職も異なっていました。武家地は大目付(おおめつけ)、寺社地は寺社奉行、町地は町奉行がそれぞれ管轄していました。また、郊外は代官の支配地域となっていました。町奉行が管轄する町地の外縁をつなぐと一定の区域が示されます。この区画内がいわゆる町奉行支配場であり、江戸の市域と考えられていました。しかし、その区画内であっても武家地や寺社地は町奉行が立ち入ることができませんでした。

 

それでは、江戸という町の範囲はどこまでだったのでしょうか? 実際のところ、江戸の範囲に対する解釈はまちまちで、最初から決まった境界があったわけではありません。町奉行支配場、寺社勧化場(寺社建立等のための寄付を募ることが許可された地域)、江戸払御構場所(追放刑者が立ち入ってはいけない地域)、札懸場(高札によって掲示した場所)など、異なる行政系統によって独自に解釈、設定されたいたようです。

 

しかし、そうは言っても何らかの統一的な範囲を決めておかないと不便なことも少なくありません。文政元年(1818年)12月に、老中阿部正精(あべまさきよ)から「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と、幕府の公式見解が示されました。

その朱印で示された御府内とは概ね以下の通りです(上図参照)。

東:中川限り

西:神田上水限り

南:南品川町を含む目黒川辺

北:荒川、石神井川下流限り

 

これは、寺社勧化場や札懸場の対象となる江戸の範囲にほぼ一致し、現在の行政区画では千代田区、中央区、港区、新宿区、文京区、台東区、墨田区、江東区、品川区の一部、目黒区の一部、渋谷区、豊島区、北区の一部、板橋区の一部、練馬区の一部、荒川区が含まれています(下図参照)。

 

この朱印図には、朱線とともに墨引(黒線)が示されています。この墨引で示された範囲が町奉行所支配の場所を表しています。ちなみに緑の線は海岸線です。文政元年以降、この朱引の範囲が江戸とされてきました。

 

高見澤
 

おはようございます。大相撲春場所が始まりました。白鳳、稀勢の里の横綱2名が休場、一人鶴竜が出場するも身体は万全ではないとのことです。昨日に鶴竜は勝ったものの、豪栄道、高安の両大関が敗れるという波乱含みの初日を迎えましたが、ここのところ何かと騒がれる角界、実際の興行にもその影響が出ているようです。これまで溜りに溜まった膿を出し切り、新たな気持ちでの再スタートが望まれるところです。

 

さて、前回、人生儀礼を「長寿の祝い」で終わりにすると記しましたが、すみません。人生儀礼の最後のテーマが漏れていました。そのテーマとは「忌日(きにち)」です。本日はこの忌日について紹介していきたいと思います。忌日は「諱日(きにち)」、「命日」とも言い、故人の亡くなった日にあたる日のことです。故人を追慕し、忌み慎み、法要や読経などを行って冥福を祈ります。その多くは仏教の儀礼として発生し、伝えられてきたものです。

 

一般的に行われる仏式での忌日は、以下の通り決められています。以前「十王詣」(東藝術倶楽部瓦版20170915)をテーマにご説明した際に、「十三仏」について触れましたが、それにも関係しているので、ご関心のある方は読み返してみてください。

お逮夜(おたいや):初七日の前夜

初七日(しょなのか):亡くなった日を入れて7日目

二七日(ふたなのか):14日目

三七日(みなのか):21日目

四七日(よなのか):28日目

月忌(つきいみ):1カ月目の命日

五七日(いつなのか):35日目

六七日(むなのか):42日目

七七日(しちしちにち):49日目、満中陰(まんちゅういん)

百カ日(ひゃっかにち):100日目

祥月命日(しょうつきめいにち):亡くなった月の命日(一周忌以降の亡くなった月日)

 

この中で、特に詳細に説明をしておきたいのは、以下3つの忌日です。

 

お逮夜

初七日の前夜に、親類縁者を招いて供養し、その後で精進料理をいただく習わし。地方によっては、この日を「精進落し」として、生臭いものを入れた料理でもてなすこともある。「逮」は「及ぶ」の意味で、「夜に及ぶ」まで斎祀る(いつきまつる、穢れを落すこと)意味が込められている。今では、葬儀と一緒にお逮夜、初七日までの儀式を済ませてしまうことが多い。長野県佐久地方では「灰寄せ」と呼ばれている。

 

七七日

一般に「四十九日(しじゅうくにち)」と呼ばれている。西日本では「満中陰」、「中陰満」ともいう。どこにも転生できないといわれる死者の魂を成仏させる供養の日とされる。

 

百カ日

没後100日目の法要のこと。六道のうち飢餓道に堕ちた亡者や無縁の亡者のために行う施餓鬼会(せがきえ)を営み、神仏の供養とともに、無縁仏の供養を合わせて行うことが多い。この百カ日を過ぎると、以降は故人の亡くなった月の命日に年忌を行う。

 

こうした忌日、年忌の風習は中国から伝来してものですが、これが日本で11世紀以降に十王信仰とともに広まりました。江戸時代に十王信仰から十三仏信仰へと発展していったことは、以前の瓦版で説明した通りです。

 

今回で江戸の暦については、ここで一旦終わりにさせていただきます。次回からは、「江戸の町作り」についてお話を進めていきたいと思います。

高見澤

 

 

 

おはようございます。今朝の東京都心は雨、風も比較的強く、出勤する間に足元がかなり濡れてしまいました。気温も比較的高く、薄手のオーバーやジャンバーなども汗ばむ陽気を感じます。

 

さて、人生儀礼も既に前回の「長寿の祝い」で終わりとさせていただきますが、それに関連し、本日は最後の絞めとして、「故事による年齢の別称」について紹介していきたいと思います。年齢の別称は、主に中国の古い歴史書や記録に残されている故事から命名されたものがほとんどです。例えば、儒教の経典とされる「四書(『論語』、『大学』、『中庸』、『孟子』)五経(『易経』、『書経』、『詩経』、『礼記』、『春秋』)」や漢の時代の歴史家・司馬遷が記した「史記」などが有名です。

 

(1) 孩提(がいてい)

2~3歳の幼児のことを指し、「孩幼」、「孩稚」とも呼ばれる。「孩」は小児の笑い、「提」は抱かれることを意味する。中国南北朝時代(439年~589年)の書物『文選(もんぜん)』にある「孩提之童」に由来する。

 

(2) 三尺の童子(さんせきのどうじ、さんじゃくのどうじ)

7~8歳の子供を指す。身長が3尺(90cm)ほどの子供ということで、無知な者に例えられる。中国南宋時代(1127年~1279年)の政治家・胡銓が記した「上高宗封事」に由来する。

 

(3) 幼(よう)

10歳を指す。四書五経の「礼記(らいき)」にある「人生十年曰幼、学(人生うまれて十年を幼といい、学ぶ)」を由来とする。学問を始める時期。

 

(4) 六尺(りくせき)

1415歳の子供を指す。六尺は古代中国で訳1.3mで子供の身長にあたる。孔子の記した「論語」に「曾子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節而不可奪也、君子與、君子人也(曾子の曰く、以て六尺の孤を託すべく、以て百里の命を寄すべく、大節に臨んで奪うべからず、君子人か、君子人なり)」に由来する。「六尺之孤」は幼くして父を失った者で、特に幼少で父を失い、即位した君主を指す。

 

(5) 志学(しがく)

男子15歳を指す。「論語」にある「吾十有五而志千学(吾十有五にして学に志す)」に由来する。孔子が15歳の時に、学問の道に志を立てたという意味。

 

(6) 笄年(けいねん)

女子の15歳、または20歳を指すこともある。女子が初めて笄(かんざし)を指す歳と言われている。「礼記」内則編に由来する。

 

(7) 破瓜(はか)

女子の16歳を指す。また男子の64歳を指すこともある。「瓜」の字は二つの「八」の字に分解できるところから、2×8→16歳、或いは8×8→64歳ということになる。

 

(8) 弱冠(じゃっかん)

男子20歳を指す。「若冠」とも記すが、「若」の字は当て字。「弱」は中国の周代(BC1046年~BC256年)の制で男子20歳のことを指していた。「冠」は元服して被る冠のことで、弱になると加冠の儀式が行われた。「礼記」曲礼上編の「二十曰弱冠(二十を弱と云い、冠す)」に由来する。成人になる時期。

 

(9) 而立(じりつ)

男子30歳を指す。「論語」為政編にある「三十而立(三十にして立つ)」に由来する。元々は「礼記」にある言葉。孔子は、30歳の頃には学問の基礎ができて自立することができたという意味。

 

(10) 壮室(そうしつ)

男子30歳を指す。また3040歳の血気盛んな年齢を指すこともある。「礼記」曲礼上編の「三十曰壮有室(三十を壮と云い、室あり)」に由来する。「室」とは妻のことで、妻を娶る時期。

 

(11) 不惑(ふわく)

男子40歳を指す。「論語」為政編にある「四十而不惑(四十にして惑わず)」に由来する。孔子は、40歳の頃には物事の道理が分かるようになり、迷うことがなくなったという意味。

 

(12) 強仕(きょうし)

男子40歳を指す。「強」とは知恵や気力が強い(充実している)ことを意味する。「礼記」曲礼上編の「四十曰強而仕(四十を壮と云う、すなわち仕う)」に由来する。仕官する時期。

 

(13) 桑年(そうねん)

男女48歳を指す。「桑」の旧字体「桒」が4つの「十」の字と、1つの「八」の字に分解できるところに由来する。

 

(14) 知命(ちめい)

男子50歳を指す。「論語」為政編にある「五十而知天命(五十にして天命を知る)」に由来する。孔子は、50歳の頃に、天が自分に与えた使命を自覚したという意味。

 

(15) 艾年(がいねん)

男女50歳を指す。「艾老(がいろう)」とも言う。「礼記」曲礼上編の「五十曰艾(五十を艾と云う)」に由来する。髪の毛が艾(よもぎ)のように白くなるという意味。役職に就く時期。



(16) 耳順(じじゅん)

男子60歳を指す。「論語」為政編にある「六十而耳順(六十にして耳順う)」に由来する。孔子は、60歳の頃には、学問が円熟して人の言うことが何でも理解できるようになったという意味。

 

(17) 耆(き)

男女60歳を指す。「礼記」曲礼上編の「六十曰耆(六十を耆と云う)」に由来する。耆とは年を取ること、長老を意味する。人を指揮する立場になる時期。

 

(18) 従心(じゅうしん)

男子70歳を指す。「論語」為政編にある「七十而従心所欲踰矩〔七十にして心の欲するところに従いて矩(のり)を踰(こ)えず〕」に由来する。孔子は、70歳になると自分のしたいことをそのまましても、間違いを起こさなくなったという意味。

 

(19) 老(ろう)

男女70歳を指す。「礼記」曲礼上編の「七十曰耆(七十を老と云う)」に由来する。老は老人を意味し、家事を子に伝える時期。

 

(20) 耄(ぼう)

男女80歳、或いは90歳を指す。「礼記」曲礼上編の「八十九十曰耄(八十、九十を耄と云う)」に由来する。この頃になると、気力・精神ともに衰えてくる時期で、愛情をもって保護しなければならず、古来中国では罪があっても刑罰の適用を免れるようになっていた。

 

(21) 期(き)

男女100歳を指す。「礼記」曲礼上編の「百年曰期(百年を期と云う)」に由来する。

 

この他にも、人の長寿を上、中、下に分け、100歳を「上寿(じょうじゅ)」、80歳を「中寿(ちゅうじゅ)」、60歳を「下寿(かじゅ・げじゅ)」とする言い方があります〔「人上寿百歳、中寿八十、下寿六十」(「荘子」)〕。また、「春秋左氏伝」には「上寿百二十歳、中寿百、下寿八十」と記されています。同じ言葉でも、出典によって年齢が異なっているものもあります。

 

高見澤
 

おはようございます。今朝の東京都心は小雨がパラついています。寒さと暖かさを繰り返しながら、一雨ごとに気温の高まりを感じる季節です。「陽だまり」などという言葉が、何となく心に響き、気持ちもウキウキしてきます。厳しい寒さの冬の後には、必ず暖かい春がやってくる。そんな自然の摂理を信じて、日々努力を重ねる毎日です。

 

さて、本日は「長寿の祝い」についてご紹介していきたいと思います。長寿の祝いは「寿賀(じゅが)」とも呼ばれ、元は十干十二支とともに中国から伝えられました。

 

中国では儒教の教えによって敬老思想と長寿を尊ぶ考え方があり、唐末から宋代には長寿を祝う詩を贈ることが流行していました。これが日本に伝わり、日本で初めて行われたのは天平12年(740年)に、東大寺の起源とされる金鐘寺(こんじゅじ)での聖武天皇40歳の祝いだといわれています。当時は日本人の平均寿命も短かったことから、40歳を初老として「四十の賀」、その後10年おきに「五十の賀」、「六十の賀」といった形で儀礼をおこなっていました。

 

平安時代にはそれが貴族の間に広まり、今のような「還暦(かんれき)」、「古稀(こき)」、「喜寿(きじゅ)」、「傘寿(さんじゅ)」といった形になったのは鎌倉時代以降、室町時代に定着したと考えられています。その頃には、大分平均寿命も延び、現代につながる日本の生活文化が醸成されたからでしょう。そしてこれら長寿の祝いが庶民の間に広まるのが江戸時代です。全国各地で様々な祝いの風習が生まれました。

 

長寿の祝いの中で、最初に来るのが皆さんよくご存知の「還暦」です。還暦とは、数え61歳(満60歳)の長寿のお祝いです。これは十干十二支のところでも説明した通り、60年で生まれた年と同じ十干十二支に還ることから、この名前が付けられました。還暦は「本卦還り(ほんけがえり)」、「華甲(かこう)」とも呼ばれます。還暦は「暦が還る」、本卦還りは「本卦(元の暦)に戻る」、華甲は「華」の文字を分解すると6つの十と1つの一が含まれることと十干の最初の「甲」を当てることで61年目に十干十二支が一巡することを意味しています。

 

還暦には、一般に赤い頭巾やちゃんちゃんこ、座布団を贈って祝う習慣があります。これには、60年巡ってもう一度赤ん坊に還るという意味合いが含まれています。日本では古くから赤い色には魔除けの力があるとされ、麻疹(はしか)や疱瘡の疫病神が嫌う「難病除けの赤」として、赤ん坊には赤い産着を着せる風習があったことに由来しているようです。還暦の祝いは、通常は数え61歳を迎える正月に行われます。つい最近までは仕事も60歳定年でしたが、平均寿命が延び、年金の原資が減り続ける中、定年を迎える歳も次第に延びていく傾向にあります。

 

還暦を過ぎると、次に迎えるのが数え70歳(満69歳)の長寿の祝い「古稀」です。この名前は、中国の唐の詩人・杜甫(とほ)の「曲江詩(きょっこうし)」にある有名な一節、「酒債尋常行処有、人生七十古来稀(酒債は尋常行く処に有り、人生七十古来稀なり)」に由来するものです。平安時代の文献には、すでにこの長寿の祝いが出てくるようです。

 

古稀の次は「喜寿」です。これは数え77歳(満76歳)の長寿の祝いです。「喜」の字を草書体で書くと「七十七」と書かれるところから、77歳の祝いを喜寿と呼ぶようになりました。喜寿の起源は室町時代といわれ、厄年の一つでもありました。場所によっては、扇子に「喜」の字を書いて配る習慣もあります。

 

数え80歳(満79歳)の長寿の祝いが「傘寿」です。傘の略字が「八」の下に「十」と書くので、80歳の祝いを傘寿と呼ぶようになりました。昔は80歳になると、白砂糖で作った太白餅(たいはくもち)を親族縁者や近所に配る習慣がありました。

 

 

以下、長寿の祝いは次の通りです。

米寿(べいじゅ):数え88歳(満87歳) 「米」の字を分解すると「八」、「十」、「八」になる。

卒寿(そつじゅ):数え90歳(満89歳) 「卒」の略字体が「九」の下に「十」と書く。

白寿(はくじゅ):数え99歳(満98歳) 「百」の字から「一」の字を取ると「白」になる。

上寿(じょうじゅ)〔百寿(ももじゅ・ひゃくじゅ)〕:数え100歳(満99歳) 読んで字の如く

茶寿(ちゃじゅ):数え108歳(満107歳) 「茶」の字を分解すると「八十八」の上に「十」が2つある。

珍寿(ちんじゅ):数え110歳(満109歳) 珍しい長寿であることから。

皇寿(こうじゅ):数え111歳(満110歳) 「皇」の字を分解すると「白」、「十」、2つの「一」がある。

大還暦(大還暦):数え120歳(満119歳) 還暦の倍であることから。

 

さてさて、人間は何歳まで生きることができるのでしょうか?

高見澤
 

おはようございます。3月に入り、九州の霧島連山にある新燃岳で噴火活動が活発になり、昨日爆発的噴火が起きたとの報道がありました。近年、火山活動の活発化と大地震の頻発が世界各地でみられるわけですが、まさに地球規模での地殻変動が起きている証拠です。自然災害のみならず、人的行為による突発的な犯罪や事故も含め、何が起きても不思議ではない時代になっています。常に意識を持って行動することが重要です。歩いているとき、電車に乗っているときも、常に自分の存在を意識しておきましょう。

 

さて、本日のテーマは、江戸から離れた人生儀礼の話題になりますが、「結婚記念日」についてお話ししたいと思います。日頃、ご主人方からするとつい忘れがちな結婚記念日ですが、奥方からすると忘れられない日とする人も多いようです。周年記念のときには、ちょっとした心遣いが必要なのかもしれません。

 

この結婚記念日という概念は、もともと日本にはなく、いろいろと調べてみると、どうやら19世紀頃の英国にそのルーツがあるようです。日本では「銀婚式」と「金婚式」がよく知られていますが、英国では1周年から15周年まで、その後は5年ごとにお祝いが行われるそうです。

 

1周年:紙婚式            2周年:綿婚式、藁婚式

3周年:革婚式、菓子婚式       4周年:花婚式、書籍婚式

5周年:木婚式            6周年:鉄婚式

7周年:銅婚式            8周年:青銅婚式、ゴム婚式

9周年:鉛婚式、陶器婚式       10周年:錫婚式、アルミ婚式

11周年:鋼鉄婚式           12周年:絹婚式

13周年:レース婚式          14周年:象牙婚式

15周年:水晶婚式           20周年:磁器婚式

25周年:銀婚式            30周年:真珠婚式

35周年:珊瑚婚式           40周年:ルビー婚式

45周年:サファイア婚式        50周年:金婚式

55周年:エメラルド婚式        60周年:ダイヤモンド婚式

65周年:ブルーサファイア婚式     70周年:プラチナ婚式

 

 

日本では、明治27年(1894年)に明治天皇が銀婚式のお祝いしたことがきっかけとなり、国民の間にも次第に広まっていったようです。人生を楽しく過ごすためには、やはり家庭が基本となるでしょう。なかなか現実は厳しいものがありますが、家庭円満、夫婦円満に努めていきたいところです。

 

高見澤

 

 

おはようございます。昨晩の雨もすっかり上がり、比較的きれいな空気の朝を迎えました。中国では、日本の国会に当たる全国人民代表大会(全人代)が始まり、昨年11月に発足した第二期習近平政権の下での政治体制が固まります。日本のメディアなどでは、独裁政権化することへの危惧を指摘する報道もありますが、巨竜中国という国を鑑みれば、欧米流の民主主義などという悠長な概念で国を治めることなど到底叶いません。5000年以上の歴史の中で、強権をもって信賞必罰で国を治めてきた中国ならではの統治体制だといえます。

 

さて、本日は人生儀礼の中でも特に一つの大きな節目となる「結婚」についてお話ししたいと思います。結婚について語るとなると、あまりにも分野が多岐にわたり、膨大な資料と向き合わなければならないので、ここでは江戸時代に的を絞ってお話し致します。

 

今では当事者の男女が合意すれば結婚は成立しますが、江戸時代ともなればそうもいきませんでした。今でも田舎の方では家同士のつきあいなどもあり、割と面倒なことも多いようでしたが、村社会を中心とする社会構造が出来上がっていた日本ではそれが当たり前であり、合理的なシステムでもあったのかもしれません。

 

江戸時代の結婚と一言で言っても、身分によってスタイルや考え方が大きく違っていました。基本的なスタイルとして「通い婚」、「嫁入り婚」、「独立婚」の3つがありました。まず「通い婚」ですが、これは男性が女性の家に通うという結婚スタイルで、一部の農村に残っていたものだそうです。結婚してもそれぞれの「家」というものから解放されることはありませんでした。次に「嫁入り婚」ですが、これは女性が男性の家に入るスタイルで、江戸時代に一般的になりました。最初から男性の両親と同居することが前提となり、今でもこのスタイルの結婚は少なくありません。そして最後に「独立婚」ですが、これは読んで字の如く、どちらの家にも入ることなく、2人で独立するものです。現代ではこれが一般的な結婚のスタイルになっており、江戸時代でも長屋の住人など、身軽に動ける人ならではの習慣だったようです。

 

結婚相手を決めるには、今では自由恋愛が大前提となっていますが、昔はそうも言ってられない場合が多かったようです。結婚相手の決め方にもいくつかパターンがありました。その一つが「政略的縁組み」です。武家など身分が高い家はこの政略的縁組みが主流で、本人同士の意思はほとんど考慮されず、家同士の結婚ということが重要視されました。二つ目が「跡継ぎ指名」というパターンです。これは主に商家や職人の家で行われていた方法で、息子に家を継がせず、長女に有能な婿を迎えることになります。婿はその家の番頭や弟子の中から選ぶことが多かったようです。三つ目が「お見合い」です。当時の庶民の間ではこのお見合いが一般的だったようですが、今と違うのはきちんと二人が対面して会って話をするというのではなく、寺社詣や芝居見物などですれ違ったり。遠くから見る程度のものだったそうです。決裂した場合の仲人の面目に配慮しての方法だったようです。そして四つ目が「くっつき合い」です。これこそが自由恋愛のことです。このパターンは長屋の庶民ならではのものでした。武家や商家の者にとっては、結婚は自分では決められず窮屈なものでした。そういう意味では、庶民の方が自由で楽しい結婚生活が送れていたのではないでしょうか。

 

江戸時代の一般的な結婚の流れですが、縁組みにあたっては、まず両家の家柄や財産の釣り合いが重視されます。婚礼の仲人は「分一(ぶいち)」といって結納金の十分の一が謝礼として受け取ることができることから、適齢期の娘や息子を物色しては縁談を持ち込み、仲人を生業にしている者もいたそうです。「十分一取るにおろかな舌はなし」。ちなみに男性の適齢期は40歳前後、女性は20歳までとか。お見合いの場所や水茶屋か芝居小屋が選ばれることが多く、当事者を交えた両家がそれとなく観察し合い、一方が先に席を立つと不成立とのこと。話がまとまれば媒酌人が立てられ、結納そして輿入れとなります。婚礼は迎え入れる側の自宅で、三々九度の杯が交わされるという流れです。

 

武家の婚儀で花嫁が着飾るのは白無垢の着物に白い綿帽子というのが江戸時代の一般的な姿でした。花嫁の被り物が、顔が隠れる綿帽子から今の角隠しになったのは昭和初期のことだそうです。

 

高見澤

 

おはようございます。黒木代表のメールにもありましたように、先般ご案内の江戸城勉強会を先週土曜日3月3日に開催致しました。池田顧問、キリロラ顧問のご参加もあり、昼間の勉強会には計9名、夜の懇親会には11名のご参加を賜り、ありがとうございました。江戸城の変遷をみれば、江戸幕府が描いた江戸の町づくりを象徴していたことが分かります。平和の時代の到来とともに、防衛に主眼を置いていた都市から次第に人々が暮らしやすい都市へと変化していったことが分かりました。

 

さて、本日も人生儀礼についてお話をしたいと思います。今回のテーマは「元服」です。元服とはご存知の通り、古来日本で行われていた成人になったことを祝う儀式のことです。今では成人式として、毎年1月第2月曜日に、満20歳になった若者を祝うイベントが各地方自治体によって行われています。

 

古来日本において、天武11年(682年)に男子の結髪(けっぱつ)加冠の制が規定されて以降、冠帽(かんぼう)着用の風習が普及しました。国史に残るものとしては、和同7年(714年)に14歳で元服した聖武天皇の記載(『続日本紀』)が初めてとされていますが、元々は中国古代の儀礼に倣った成人男子の儀式であったようです。

 

実際に、成人の儀式が元服と呼ばれるようになったのは奈良時代以降のことで、「初冠(ういこうぶり)」、「加冠(かかん)」、「首服(しゅふく)」、「冠礼(かんれい)」、「御冠(みこうぶり)」、「初元結(はつもとゆい)」、「烏帽子着(えぼしぎ)」などとも呼ばれます。当初は主に公家や武家の間で行われていました。元服の「元」は首(こうべ)、「服」は冠のことを指しています。元服の儀式の中心は、元服する前には童(わらわ)と呼ばれて頭頂をあらわにしていた男児に、成年としての象徴である冠を加え、髪型や服装を改めるところにあります。そしてこれを機に、社会的に一人前の扱いを受けることになります。

 

元服の年齢は1516歳から20歳ぐらいまでの幅があり一定しているわけではありません。天皇や皇太子の例では1117歳ぐらいが通例のようで、一般に元服の際に叙位、任官が行われることから年齢が下がる傾向にありました。天皇の元服は正月1~5日の吉日を選ぶ定めがあり、一般でもこれに倣って多くは正月に行われていました。

 

元服の儀式は時代や身分によって異なっています。平安時代には髪を結い、中世の武家の間では冠の代わりに烏帽子を用いていました。加冠の人を「烏帽子親」、元服する人を「烏帽子子」、「冠者(かじゃ)」などと称し、幼名が改められ成人後の名前である実名が定められました。実名には、加冠や貴人の名の1字を授かることもありました。

 

戦国時代以降、特に江戸時代に入ると、下級武士の間から露頂の風習が広まるにつれ、元服に際して「月代(さかやき)」を剃り、衣服の袖を短くつめる「袖止(そでとめ)」を行うのみになりました。江戸中期には、この習慣が将軍をはじめ上層武士にまで及び、民間でも類似の儀式を行うこともあったようです。

 

一方、女性については、古くは元服ではなく、「裳着(もぎ)」という儀式が行われていました。この裳着は平安時代から安土桃山時代において、1216歳までの年齢の女性を対象に行われていましたが、政略結婚が盛んであった戦国時代には8歳まで対象年齢が繰り下がっています。これが江戸時代に入ると、武家や庶民の間では男女ともに同じように元服を行うようになります。対象年齢も1820歳へと繰り上がり、結婚と同時に眉を剃り、歯を黒く染め、丸髷を結うようになりました。

 

高見澤

 

おはようございます。いよいよ明日は江戸城勉強会です。皇居東御苑の中を歩き、その後はぐるりと一周しますので、かなり歩くことになります。歩きやすい靴でご参加ください。ちなみに皇居一周は約5キロメートルですから、東御苑内や北の丸を加算すると6~7キロメートルになるかと思います。

 

さて、初誕生の祝いのあとの人生儀礼としては、初節句(初節供)や七五三、十三参りなどがありますが、このテーマはすでに年中行事のシリーズで取扱いましたので、ここでは省略させていただきます。そこで本日は、「厄年(厄払い)」についてご紹介したいと思います。

 

厄年とは、人の一生のうちで厄難に遭遇するおそれが多い年齢のことをいいます。現代科学でいうところの科学的根拠はなく、医学が発達したとされる今日でも、依然として忌み慎まなければならない年頃として、一般に根強く意識されています。

 

厄年が信じられてきたのは、厄月や厄日とともに室町時代からといわれています。その起源の一つが陰陽五行思想で、数字の陰陽と深く係っているようですが、その理論的根拠はよく分かっていません。当初、公家や武士の間で信じられていたものが、次第に一般に広まり、庶民の間に定着したのが江戸時代だといわれています。また、男女の厄年が別々になり、大厄・前厄・跳厄(後厄)といった考え方も江戸時代だったようです。

 

江戸時代の正徳3年(1713年)に編纂された『和漢三才図会』には、「今の俗男女厄を分つ、その拠るところを知らず。男四十二を大厄とし、その前年を前厄といい、翌年を跳厄(はねやく)といい、前後三年を忌む...」とあります。時代をさらに遡ると、『源氏物語』(平安時代中期)、『栄華物語』(平安時代後期)、『水鏡』(鎌倉時代初期)、『高国記』(成立年未詳、室町時代から戦国時代にかけての畿内の戦乱を叙述した合戦記)などにも厄年に関する記述がみられ、13歳、33歳、37歳、42歳を厄年としています。

 

今日、一般的に厄年とされているのは以下の通りです。

男性:10歳、25歳、42歳、61

女性:19歳、33歳、37

このうち、男性42歳、女性33歳を「大厄(たいやく)」と称し、その前後の年も前厄、後厄として、最も慎まなければならない歳とされています。このため、多くの人が厄払いのために各地の寺社へ参詣するほか、厄払いをしています。

 

こうした厄年は迷信的な要素が強いという理由で、識者の間では排斥する向きもありますが、医学的見地から合理性があるという意見もあります。男性42歳は、働き盛りで体力的に無理をしやすい時期であり、女性33歳は出産・子育てと苦労が多く体調を崩しやすい時期で、男女ともに生理的な節目にあたるといわれています。こうした節目に、自分の人生を振り返ることも必要なのかもしれません。

 

高見澤

 

 

 

おはようございます。今朝の東京都心は雨、幸いにも出勤の際には大した風もなく、あまり濡れずに職場に到着することができました。ただ、先ほどから時折強い風が吹いているようで、しばらくしたら更に風が強くなるものと思われます。関東では風速25メートルの風が吹くと予想されています。

 

さて、3月3日の勉強会に向けて、江戸城の説明も一通り行いましたので、ここで瓦版のテーマも「人生儀礼」に戻りたいと思います。本日のテーマは「初誕生の祝い」です。

 

古来日本では生まれると1歳、そして正月ごとに1つずつ歳が増えていく「数え年」で年齢を数えていたので、当然誕生日にお祝いをするという習慣はありませんでした。誕生日を祝うようになったのは、やはり欧米の習慣が定着するようになってからだと思われます。

 

とはいえ、日本でも子供が生まれて1年目の初誕生日だけは特別扱いで、大々的にお祝いをする習慣が各地であったようです。この初誕生の祝いは、昔は「ムカレ」、「ムカイドキ」、「ムカワリ」、「ムコヅキ」などとも言われており、お産婆や親戚を招いてお祝いしていました。衛生状態や医療設備が発達していなかった昔は、今と比べれば1歳を迎える前に亡くなることも多く、1年間無事に成長してきたことへの感謝・喜びと、今後の健やかな成長を願ってお祝いをしていたのでしょう。

 

誕生日パーティーというと、今ではバースデーケーキでお祝いしますが、古来日本でお祝いをする際には、一般的に「餅」で祝うことが多かったようです。この初誕生の祝いでも、お餅をつくところが多く、そのお餅を「誕生餅」と呼んでいました。このお餅も地域によって様々で、誕生餅のほか、「一生餅」、「踏み餅」、「立ったら餅」、「背負い餅・しょい餅」、「力餅」などと呼ばれています。このお餅には、神様と子供の結びつきを強めようとの願いが込められてもいるそうです。

 

一生餅というのは「一升餅」とも呼ばれ、一升分(1.8kg)の糯米を使って作る餅のことです。一升と一生を掛け、「一生食べ物に困らないように」、「これからの一生が健やかになるように」との願いが込められています。お餅の形も丸く、「円満な人生」という意味も込められているのかもしれません。

 

地域によっては、子供が1歳の誕生日前後から早く歩き出すのは、家を離れるので良くないとされ、誕生餅を背負わせた子供をわざと転ばせたり、餅を投げつけて歩かせないようにする風習があります。このため「転ばせ餅・転ばし餅・転び餅」などとも呼ばれます。また、子供に餅を踏ませる踏み餅のある地域もあります。

 

地方それぞれに風習が異なり、それぞれの起源が何時頃だったのかははっきりしていません。

 

高見澤

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