2018年3月アーカイブ

 

おはようございます。満開の桜も散り始め、いよいよ来週からは4月、新年度が始まります。会社組織や役所では人事異動が行われ、新年度の体制に向けた担当者交代の挨拶に訪れる方も少なくありません。お世話になった方ばかりなので、一人一人に対して丁寧に対応する必要があり、それだけでも1日の大半の時間を要してしまいます。これが朝早くと夜遅く、或いは休日を使ってデスクワークに集中せざるを得ない理由の一つでもあります。

 

さて、本日からは江戸時代の日本を支配してきた「江戸幕府」について紹介していきたいと思います。今回のテーマは「江戸幕府とは?」です。日本で最初に「幕府」が開かれたのは、皆さんもよくご存知の源頼朝による「鎌倉幕府」で、それに続くのが足利尊氏による「室町幕府」です。「幕府」というのは、一般的には武家の最高権力者(征夷大将軍)を中心とした政治組織のことを指します。幕府の語源も中国に由来しています。「幕」は将軍が座する「天幕」を意味し、「府」は古代中国で官物や財貨を収蔵した場所を指します。ただ、この幕府という呼称は、実は江戸時代中期以降に朱子学の影響によって学者の間で使われ始めた概念で、鎌倉幕府、室町幕府という呼び方もこの頃から使われていました。当時の人はこの武家政権を幕府とは呼ばず、「公儀」と呼んでいました。こうした意味から、現在の歴史学者の間では、鎌倉幕府の成立時期に対して論争が生まれています。

 

とはいえ、ここでは便宜上、徳川将軍家による武家政権を「江戸幕府」ということで進めていきたいと思います。江戸幕府の成立は、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた慶長8年(1603年)です。以後、徳川家の当主が正二位内大臣兼右大臣に任ぜられ、290余りの武家大名と主従関係を結んで行われる統治体制、いわゆる封建体制が、大政奉還が行われた慶応3年(1867年)まで続きました。幕末期には、徳川政府を「幕府」、臣従している大名家を「藩」として、「幕藩体制」と呼ばれるようになり、これが今では一般的に使われるようになっています。

 

幕藩体制の基本は、幕府と各藩との間の忠義の精神に基づく協力・連携が重要になります。将軍は大名に対して朱印状を与えて知行を保障し、大名は知行内において独自に統治を行う権限を一程度有していました。当時は「幕府」に対して「公儀」と呼んでいたように、「藩」ではなく「領」、「領分」、「領知」と呼ばれていました。幕藩体制下での将軍と大名との主従関係を確認するために、諸藩の大名に課せられていたのが軍役としての参勤交代であり、築城・治水工事などの手伝普請でした。

 

幕府の基本的な政治体制は老中をはじめとする幕閣によって行われるもので、権力の集中を避けるために主要な役職は複数名を配置、月番制による政務の担当、重要な決定事項の合議制などの措置がとられていました。この具体的な体制については、後日ご紹介したいと思います。もちろん、家康、家光(3代)、綱吉(5代)、吉宗(8代)、家斉(11代)など親政を行っていたとされる将軍もいますが、行政組織なくして事が動かないのも確かです。

 

幕府自身も「公儀」として国内全体の統治を行うとともに、1大名として領分(天領、御領)を支配し、京都所司代、大坂城代、遠国奉行(おんごくぶぎょう)、郡代・代官などの地方官を設置しました。


高見澤

 

おはようございます。先週出張前に桜の開花宣言を聞いたばかりなのに、先週末出張中に東京では桜が満開となっているとのニュースを耳にしました。確かに、我が職場に近い皇居北の丸の桜並木はものの見事に咲き誇っており、終日花見客で賑わっています。

 

さて、本日のテーマは「外に広がる江戸の都市化」です。現在の東京の中心部の多くが海辺を埋め立てられて造られたことが、これまでの説明でお分かりいただけたかと思います。このため、井戸を掘っても生活に十分な真水を得ることができず、江戸幕府にとっても水の確保が重要な課題となります。

 

そこで、もともと赤坂にあった溜池が活用されるとともに、井の頭池を水源とする神田上水が寛永6年(1629年)に整備されます。その後、江戸の人口が増えてくると、これだけでは供給不足となり、承応2年(1653年)に玉川上水が造られました。この辺りのお話は、すでに「江戸の上水」のテーマで紹介しましたので、ここでは省略します。

 

寛永13年(1636年)に外堀が完成することで、江戸の都市造りが一段落することになります。しかし、その後も人が更に流入して人口がますます増えていきます。そのために、町の再開発を行い、更には町を外へ拡大する必要が出てきます。そんな折に起きたのが明暦3年(1657年)の明暦の大火です。明暦の大火については、別途説明の機会を設けますが、これによって江戸の町の大部分が焼失し、江戸城天守も炎上してしまいました。



この明暦の大火以降、火事をできるだけ防げるような都市設計が行われ、江戸城西の丸内の吹上に置いていた徳川御三家の屋敷も半蔵門外の紀尾井町に移設するなど、大名屋敷の配置も大きく換えられ、類焼を防ぐための火除地として広い空地や庭園が各地に設けられることになりました。江戸の町も外堀を越えて外側に広がります。隅田川対岸の深川、永代島へと都市化が進むのは、この頃からです。

 

家康以降のこれまでの江戸の町造りの流れを追うと、以下のようになります。

 

慶長から寛永年間(1596年~1644年)までは、江戸城を中心として多くの町が造られ、これらは「古町」と呼ばれ、約300町ありました。明暦の大火以降、新たな年計画が立てられ、京橋木挽町東の海洲部分や赤坂・小日向などの湿地が埋め立てられ、本所深川の開発が始まります。江戸が発展するための基礎が出来上がるのはこの頃です。芝・三田・飯倉から下谷・浅草に至る街道筋の代官支配地に建設された町屋が、「町並地(まちなみち)」として町奉行支配地に組み込まれるのが寛文2年(1662年)頃で、江戸の総町数は674町となります。

 

延宝年間(1673年~1681年)にはほぼ江戸の原形が出来上がります。北は千住から南は品川まで町屋が続き、いわゆる「大江戸」がここに出現します。従来は二里四方とよばれた江戸の町も、この頃には四里四方といわれるまでに拡大しました。正徳3年(1713年)には本所・深川一体や山の手の町屋を町並地として組み入れ、この頃の総町数は933町となりました。延享年間(1744年~1747年)には、町地の強制移転により「代地町(だいちまち)」が増加します。また、居住町人の増加によって、寺社門前町が町奉行の支配下に置かれ、総町数も1,678町までに大きく膨れ上がりました。こうして江戸は世界最大の都市へと、その地位を高めていったのです。

 

高見澤

 

おはようございます。昨晩、北京から戻ってきました。週末を挟んで3日間、終日中国語と英語に曝され、ホテルに戻れば夜なべをして報告メモを作成し、代休もとらずに本日も朝から出勤です。北京では「釣魚台国賓館」とう迎賓館で会議を行っていたのですが、最終日、急遽会場が変更になり、食事も含め一番南端の14棟での開催となりました。本来であれば北端の5号棟も利用することになっていたのですが、外国からの国賓の宿泊場所となる18号棟の脇を通らなければならず、まさに当日はそこが閉鎖され、厳重な警備態勢が敷かれていました。北京市内のメイン道路である長安街も交通管制が行われ、長時間にわたって反対車線の一般車両の通行が止められていました。何かあったのかと思っていた矢先に、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の訪中可能性の報道を耳にし、歴史的事件のタイミングに巡り合った自分の運命の不可思議さに奇妙な因縁を感じた次第です。

 

さて、本日は「江戸の寺社の配置」について、紹介していきたいと思います。江戸をはじめとする城下町において、武家地、町地とともに寺社地が大きな範囲を占めていましたが、もちろん江戸でも寺社地は比較的広範囲でした。

 

これら寺社地は、風水の要素が多分に考慮されて配置されています。そもそも家康によって江戸の地が選ばれた一因の一つが、北の「玄武(山)」として麹町台地、東の「青龍(河川)」として平川(神田川)、南の「朱雀(海、湖沼)」として日比谷入江、西の「白虎(大道)」として東海道があり、「四神相応(しじんそうおう)」の地であったからだと言われています。

 

この四神相応については、また改めて紹介していきたいと思いますが、この考え方も中国から伝来したもので、韓国や日本でも取り入れられ、平安京もまたこれに基づいて都市造りがなされています。江戸の町が拡大すると、玄武には本郷大地、青龍には大川(隅田川)、朱雀には江戸湾、白虎には甲州街道がそれぞれ対応することになります。確かに、北半球での風の方向や日当たりなどを考えると、こうした地形は気が自然に流れるような感じを受けます。

 

江戸は、この四神相応に加えて、忌むべき方位としての「鬼門」、「裏鬼門」への対応も考慮した寺社の配置がなされています。陰陽道では、鬼が出入りする方角で万事に忌むべき方角とされる「艮(うしとら)」の方角、すなわち北東を鬼門としており、鬼門とは反対の「坤(ひつじさる)」の方角を裏鬼門として忌み嫌う考え方があります。この鬼門から裏鬼門が邪気の通り道とされています。

 

関東を代表する怨霊である平将門〔出生年不詳~天慶3年(940年)〕を祀る「神田明神」は、現在の将門の首塚がある江戸城大手門前から江戸城の鬼門にあたる駿河台へと移設され、江戸総鎮守として奉じられました。また、江戸城の建設に伴い、城内にあった「山王権現(日枝神社)」を裏鬼門である赤坂へと移しました。

 

更に、家康の側近でブレーンとされる天台宗の僧・南光坊天海〔天正5年(1536年)~寛永20年(1643年)〕が江戸城の鬼門にあたる上野忍岡(しのぶがおか)を拝領し、京の鬼門封じとされる比叡山延暦寺に倣って堂塔を建設、寛永2年(1625年)に「寛永寺」を開山します。その反対の裏鬼門に配置されているのが「増上寺」というわけですが、もともと江戸貝塚(千代田区紀尾井町)にあったこの寺が江戸城の裏鬼門にあたる現在の芝に移設されたのは慶長3年(1598年)とされています。鬼門の前に裏鬼門を封じるという点が疑問に感じるところですが、結果的に鬼門封じ、裏鬼門封じの形が出来上がっているところに驚かざるを得ません。

 

高見澤

 

 

おはようございます。明日3月23日から来週27日まで北京に出張してきます。その間、瓦版もお休みさせていただきますので、ご理解の程、よろしくお願い致します。今回の出張は、「中国発展ハイレベルフォーラム」という中国の政府系研究機関「国務院発展研究センター」が主催する国際会議に、私の所属する組織の理事長が正式メンバーとして招待されており、それに随行する(かばん持ち)ものです。24日から26日までの週末を挟んだ3日間、釣魚台国賓館(迎賓館)に閉じこもりとなり、英語ないしは中国語で中国を巡る国際情勢を議論し合うハイレベルな国際会議です。IMF(国際通貨基金)やOECD、世銀、ADB(アジア開銀)の事務総長や総裁、ロイヤル・ダッチ・シェルやプルデンシャル、ネッスル、グーグル等世界に名立たる大手企業のCEO、ジェームス・ヘックマン、マイケル・スペンス、ジョセフ・ステグリッツといったノーベル経済学賞受賞者をはじめとする著名な学者が出席します。ただ聞いているだけの会議ですが、報告をまとめなければならないこともあり、帰国後はかなりヘトヘトになっていることでしょう。

 

さて、本日は「家康後の江戸の町造り」をテーマに話を進めていきたいと思います。豊臣氏を滅ぼし、盤石な政権の基盤を固め、江戸の町が後に拡大できるような形で整備を行った家康が元和2年(1616年)に亡くなります。将軍職は慶長10年(1605年)に既に嫡男秀忠に譲っていましたが、「駿府の大御所」として家康が実権を握っていました。家康の死後、二代将軍秀忠、三代将軍家光と引き続いて江戸城の大改築と江戸の町造りが進められていきます。

 

秀忠は江戸の北東の守りを固めるために、小石川門の西から南に流れていた平川を東に流す改修工事を行います。現在の水道橋から万世橋に至る本郷から駿河台までの神田台地は掘り割って人工の谷を造成し、そこから西へは元々隅田川に流れ込んでいた中川を利用して浅草橋を経由して隅田川に流れ込むようにしました。これが江戸城の北の外堀となっている神田川です。この工事によって平川下流にあった一ツ橋、神田橋、日本橋を経て隅田川に至る川筋は神田川(平川)から切り離されて、江戸城の外堀と内堀の間のもう一つの堀になりました。この堀は、明治時代に再び神田川とつなげられて、神田川の支流である現在の日本橋川になります。

 

三代将軍家光の時代には、江戸城の西側の外郭の整備が行われます。溜池や神田川に注ぎ込む小川の谷筋を利用して溜池から赤坂、四ツ谷、市ヶ谷を経て牛込に入り、神田川につながる外堀を整備しました。この工事は、全国の外様大名を大きく動員して行われ、外堀が完成するのは寛永13年(1636年)でした。上図の御成門から浅草橋門に至る江戸城の「の」の字の外側部分にあたります。これにより、江戸の町の防御、運河による輸送路、生活用水の確保といった街造りのための基本的なインフラが整うことになったのです。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は、1日腰を温めて休んでいたおかげで、だいぶ楽になりました。冷やして血行が悪くなっていたことが原因かと思います。今朝は多少の痛みは残っていますが、問題なく動けるまでには回復しました。気持ちは若いつもりでも、身体がいうことをききません。

 

さて、本日は「家康の江戸の町造り」についてお話ししていきたいと思います。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、西軍(豊臣方)の総大将・石田三成を打ち破った徳川家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任ぜられます。征夷大将軍とは、令外官(律令の令制の規定にない新設の官職)で、古代は蝦夷地(東北地方)の鎮撫のために臨時に編成された遠征軍の指揮官を指していました。延暦13年(794年)に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)〔天平3年(731年)~大同4年(809年)〕が任ぜられたのが最初で、その後は有名な坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)〔天平宝字2年(758年)~弘仁2年(811年)〕が就任しています。これが建久3年(1192年)に源頼朝が任命されて以降は武士の頭領、武家政治を司る幕府の主宰者の職名となり、足利氏、徳川氏と引き継がれて、それぞれ世襲していくことになります。

 

征夷大将軍となった家康はその年に江戸幕府を開きます。そして、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、同20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川氏による天下がここに成立しました。

 

前回ご紹介した道三堀が完成すると、隅田川河口から江戸城の傍らまで、城の建造に必要な木材や石材を搬入のための運河として利用され、道三堀の左右に舟町が形成されます。現在の常盤橋門外から日本橋の北側かけては元々平地であったこともあって町人の町が出来上がりました。また、江戸城南側の芝、北側の浅草、西側の赤坂や牛込、麹町にも町屋が発展していきました。

 

江戸の町の一番の特徴は、「の」の字型に設計されていたことです。江戸城の本城は大手門の内側にある本丸や二の丸、西の丸大手門の内側にある西の丸などの内郭内に将軍や嗣子・大御所が居住する御殿が造られ、その西側に半蔵門内の吹上に当初は御三家(尾張家、紀伊家、水戸家)の屋敷が置かれました。内濠の外側では、東の大手門下から和田倉門外にかけて譜代大名の屋敷、南の桜田門の外側には外様大名の屋敷が配置されました。また、西側の半蔵門の外側から一ツ橋門、神田橋門外に至る台地には旗本・御家人の屋敷が置かれ、武家屋敷や大名屋敷の東側にある常盤橋、呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋から隅田川、江戸湾に至るまでの日比谷入江の埋め立て地方面には町地が拡げられていきました。つまり、大手門から数寄屋橋に至るまで「の」の字の濠の内外に将軍、親藩、譜代、外様、御家人・旗本、町人が配置されていることが分かります。驚くべきことは、この「の」の字の渦巻きがさらに拡げられるような構造に設計されていたことなのです。


高見澤
 

おはようございます。昨日から腰痛に悩まされ、本日は休養を取ることにしています。先ほど、職場にはその旨連絡をしたところです。明日の理事会を控え、本来であれば休んでいる訳にはいかないところですが、身体がいうことをききません。こんなときは「休め」ということなのでしょうね。

 

さて、本日の「江戸の町造り」は、いよいよ徳川家康の時代に入っていきます。天正18年(1590年)、豊臣秀吉によって後北条氏が滅ぼされると、家康は御北条氏が支配していた関八州(相模、伊豆、武蔵、上総、下総、上野、下野の一部、常陸の一部)へと移封させられます。そのとき、家康が居城として選んだのが江戸でした。当時の江戸城は太田資長が築いたままの小さな城で、徳川家が移り住むには適切ではありませんでした。多くの家臣を引き連れてくるのですから、手間暇を考えれば旧来ある程度整備されている小田原か鎌倉なとの地を選ぶのが常識です。後の徳川家の発展を考えれば、江戸を居住地と選んだのが、常識にとらわれない家康の深謀遠慮がそこにあったのかもしれません。

 

当時の江戸は、目前には海が迫り、江戸湾沿いの一帯は多くの汐入地が点在し、満潮になれば海水が入り込み、潮が引けば葦や萱などが生い茂る湿地帯になっていました。後背地には武蔵野の山や林に覆われた原野が広がり、平坦な土地は少なく、とてもではありませんが多くの人が生活できるような場所ではなかったようです。とはいえ、最近の扇谷氏や御北条氏の記録や古文書の研究から、江戸は家康入府以前から交通の要衝としてある程度発展していたのではないかとの見方もあるようです。しかし、家康が江戸入府以降、大規模な江戸の町造りを始めたことは確かです。

 

天正18年8月1日(旧暦)、いわゆる「八朔」の日に家康は駿府から江戸に居を移します。家康は、江戸城本城の拡張は一程度に留め、まずは城下町の建設を進めたといわれています。江戸城を本格的に拡張するには、普請に携わる町民を集め、住まわせる必要があったからでしょう。江戸城和田倉門から隅田川まで道三堀を穿ち、そこから出た土で江戸城の目の前に広がっていた日比谷入江を埋め立て始め、その後、神田山(大手町から駿河台にかけての一帯)を削り、日比谷入江や数多くあった汐入地を埋め立てて町を広げました。また、平坦になった神田山の跡地も人が住める土地になりました。現在も高台の神田駿河台は切り崩された神田山の名残です。日比谷入江の東、隅田川河口の西には「江戸前島(えどまえとう)」と呼ばれる砂州があり、当時は半島になっていましたが、日比谷入江が埋め立てられることによって地形が大きく変わり、半島ではなくなってしまいました。

 

 

家康は上水道の整備も積極的に行いました。平川(神田川下流)は江戸市中へ物資を運ぶ輸送路でもあり、江戸城を守る濠(外濠)としても利用され、神田山を切り崩した際に平川を隅田川に合流させ、江戸市中に水を運ぶ上水・小石川上水(後の神田上水)として活用したのです。これが神田上水として完成するのは3代将軍家光の時代ですが、水源は湧水に恵まれ水量が豊富な吉祥寺村の井の頭池です。また、当時は今の行徳(千葉県市川市南部)が塩の産地であったことから、道三堀に加え小名木川(おなきがわ)などの運河が造られ、塩や米を運ぶ重要な水上輸送路として活用されました。その後、江戸城も拡張され、本丸、二の丸、三の丸、西の丸などが築かれることになります。江戸城の周りには多くの濠割が造られ、敵からの防御に加えて、水上輸送が便利になり、商業都市としての発展の基礎がここに出来上がることになります。

 

文禄3年(1594年)、家康は隅田川で最初の橋である千住大橋を架けます。明暦3年(1657年)の明暦の大火で多数の死者を出すまでは、江戸の防御のためにこの橋以外に隅田川に橋を架けることは禁止されていました。明暦の大火後に隅田川に架けられた2番目の橋が両国橋です。江戸の橋については、また特集を組んで説明していきたいと思います。こうして、家康の天下取りに向けた拠点造りが始まっていくのです。


高見澤

 

おはようございます。今、学校法人「森友学園」への国有地売却を巡って、国会並びに財務省が揺れに揺れています。決裁文書の改ざんや国会答弁での虚偽報告は絶対にあってはならいこととして、一般に認識されているにもかかわらず、こうしたことが日常茶飯事に行われていたとしたら、国民の政府に対する信頼は一気に地の底に堕ちてしまうでしょう。これもまた日本にうごめく大きな膿として、出し切ってしまうことも必要なのかもしれません。

 

さて、本日も「江戸時代より前の江戸」をテーマに、前回の続きでお話しを進めていきます。太田資長(太田道灌)は、江戸城を築いてからも扇谷上杉家のために力を尽くして、主家の勢力を大きく伸ばしていきます。そのために、資長の信望も高まっていきます。資長は、資長の勢力が大きくなることを恐れた主家の上杉(扇谷)定正によって暗殺されてしまいます。それが文明18年(1486年)のことでした。資長の死後、扇谷上杉家は次第に勢力を失っていくことになります。

 

扇谷上杉家の没落を決定的なものにしたのが、大永4年(1524年)に武蔵国高輪原(現東京都港区高輪)で起きた「高輪原(たかなわはら)の戦い」です。北条早雲の死後、御北条家二代当主となっていた北条氏綱は、相模国小田原を拠点に武蔵方面への勢力拡大を図っていました。氏綱は扇谷上杉家の家臣に対する調略を進め、同家家臣で江戸城代であった太田資高(資長の孫)を寝返らせることに成功します。これに乗じて氏綱は武蔵への進行を開始し、当時扇谷上杉家の当主であった上杉朝興はこれを迎え撃つために大軍を擁して高輪原に進出しました。当初は一進一退の激しい戦いでしたが、最終的に上杉軍は北条軍に敗れて江戸城に撤退します。しかし、江戸城を支えることも叶わず、最後には江戸城を放棄して河越城に逃げ込み、この合戦は北条軍の勝利に終わりました。これによって江戸城は北条氏の支配下に移りました。