東藝術倶楽部瓦版 20180313:808町よりも多かった大江戸八百八町-「江戸の範囲」

 

おはようございます。今朝の東京都心は晴れ、寒さも大分和らいできたようで、いよいよ桜の花の気配を感じる季節になってきました。わが職場の近くにある靖国神社には、気象庁が桜の開花を判断する標準木があります。また、先日の江戸城勉強会でも歩いた千鳥ヶ淵は日本有数の桜の名所になっています。

 

さて、本日からは新たなシリーズとして「江戸の町作り」についてお話をしていきたいと思います。最初のテーマは「江戸の範囲」です。江戸時代は徳川将軍家を中心とする「封建体制」がとられていたことは、皆さんもよくご存知のことと思います。ところで、この封建体制とはどのような仕組みなのでしょうか? 簡単に言えば、君主の下に、諸侯に土地が与えられ、諸侯が領有する土地とそこに住む住民を統治する政治・社会制度のことです。そして諸侯が領有する以外の土地が君主の直轄地になります。ですから、江戸の町全体の土地の所有権は徳川将軍家にあり、何事においても江戸幕府の都合が最優先され、すべて将軍家のお城を中心に考えられていたのです。

 

城下町としての江戸は武家地、寺社地、町地の3つに区分されていました。江戸城の周囲には大名や旗本・御家人の屋敷が並んでおり、武家地は江戸全体の約6割を占めていました。大名屋敷ともなると数千~数万坪、しかも参勤交代の際に藩主が居住する上屋敷、隠居後や嗣子が住む中屋敷、郊外の別荘にあたる下屋敷と3つの屋敷を構えるのが通例でしたから、江戸の面積の大半が大名屋敷であったことがよく分かります。

 

「八万騎」と称される旗本・御家人もそれぞれ屋敷を構えており、1,000カ所以上の寺社が数百~数万坪の境内をもっていたので、町民の居住のためにあてられた土地はほんのわずかなところでした。武家地が6割であるのに対し、寺社地が約2割、町地は残りの約2割であったといわれています。

 

町地は俗に「大江戸八百八町」と呼ばれていましたが、これは江戸の実際の町数ではなく、江戸という都市空間に多くの町があったことを喩えた言い方です。天正18年(1590年)に徳川家康が入府した頃の江戸は広大な武蔵野の一寒村にすぎず(交通の要所ではあったようですが)、入江が深く入り込んだ低湿地が広がっていました。江戸の町作りが始まった当初、慶長年間から寛永年間(1596年~1644年)ころの町数は約300町ほどでした。その後徐々に町が広がり、寛文2年(1662年)には674町、延宝年間(1673年~1681年)にはほぼ江戸の原形が出来上がります。北は千住から南は品川辺りまで町屋が続く「大江戸」が出現し、それまでは「二里四方」と呼ばれていた江戸の町も、この時期に「四里四方」といわれるまでに拡大しました。正徳3年(1713年)には933町、八百八町を超え、延享年間(1744年~1747年)には何と1,678町まで膨れ上がりました。江戸の町が広がりこれだけ町数も増えていきましたが、それでも町地は面積からすればきわめて限られた範囲であったことが分かります。

 

江戸のそれぞれの地域を管轄する行政職も異なっていました。武家地は大目付(おおめつけ)、寺社地は寺社奉行、町地は町奉行がそれぞれ管轄していました。また、郊外は代官の支配地域となっていました。町奉行が管轄する町地の外縁をつなぐと一定の区域が示されます。この区画内がいわゆる町奉行支配場であり、江戸の市域と考えられていました。しかし、その区画内であっても武家地や寺社地は町奉行が立ち入ることができませんでした。

 

それでは、江戸という町の範囲はどこまでだったのでしょうか? 実際のところ、江戸の範囲に対する解釈はまちまちで、最初から決まった境界があったわけではありません。町奉行支配場、寺社勧化場(寺社建立等のための寄付を募ることが許可された地域)、江戸払御構場所(追放刑者が立ち入ってはいけない地域)、札懸場(高札によって掲示した場所)など、異なる行政系統によって独自に解釈、設定されたいたようです。

 

しかし、そうは言っても何らかの統一的な範囲を決めておかないと不便なことも少なくありません。文政元年(1818年)12月に、老中阿部正精(あべまさきよ)から「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と、幕府の公式見解が示されました。

その朱印で示された御府内とは概ね以下の通りです(上図参照)。

東:中川限り

西:神田上水限り

南:南品川町を含む目黒川辺

北:荒川、石神井川下流限り

 

これは、寺社勧化場や札懸場の対象となる江戸の範囲にほぼ一致し、現在の行政区画では千代田区、中央区、港区、新宿区、文京区、台東区、墨田区、江東区、品川区の一部、目黒区の一部、渋谷区、豊島区、北区の一部、板橋区の一部、練馬区の一部、荒川区が含まれています(下図参照)。

 

この朱印図には、朱線とともに墨引(黒線)が示されています。この墨引で示された範囲が町奉行所支配の場所を表しています。ちなみに緑の線は海岸線です。文政元年以降、この朱引の範囲が江戸とされてきました。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年3月13日 10:18に書いたブログ記事です。

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