東藝術倶楽部瓦版 20180314:江戸重継が拠点を築いた「江

 

おはようございます。今朝は午前中、経済産業省で会議があるため事務所には立ち寄らず、直接霞が関に向かいます。今年度の事業報告の作成と来年度の事業計画作り、各方面の情報収集と相変わらず忙しい日々を過ごしています。

 

さて、本日は「江戸時代より前の江戸」の歴史をたどってみたいと思います。「江戸」という地名が、日本の文献上で初めて登場するのは鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』とされています。

 

平安時代中期、930年頃に成立したとされる『和名類聚抄』には、今の東京都心の辺りを示す地名として豊嶋郡に「湯島郷」や「日頭郷」、荏原郡に「桜田郷」が存在していたことが記されています。湯島郷は今の文京区湯島、日頭郷は同区小日向、桜田郷は千代田区霞が関であったと考えられています。当時、江戸という地名があったかどうかは記されていないので分かりません。

 

平安末期、この地域を拠点としていたのは桓武平氏の流れをくむ秩父一族でした。武蔵国秩父郡中村郷で秩父氏を名乗った平将恒(たいらのまさつね)〔寛弘4年(1007年)~天喜5年(1057年)〕を源流とする一族です。秩父一族は、秩父から江戸湾に至る入間川(現荒川)沿いの一帯を支配し、武蔵国で大きな勢力を誇っていました。将恒から数えて4代目の当主である秩父重綱(生没年不詳)の四男・重継(生没年不詳)は、秩父地方を出て武蔵国江戸郷に移り、桜田の高台(本丸、二の丸辺り)に城館を構えます。これが後に江戸城へと発展していきます。重継は江戸の地名をとって「江戸太郎」を名乗り、江戸氏を興します。

 

こうした記録から、平安末期には「江戸」の地名があったものと考えられています。この江戸の地名の由来については諸説あります。「江」は川、或いは入江、「戸」は入り口の意味で、「江の入り口」を由来とする説、「戸」は港町の名称に使われることがあることから「江の港」とする説などがあります。当時は、「日比谷入江」と呼ばれる入り江が、後の江戸城の近くまで入り込んでいました。

 

当時の江戸の地形は、今とは大分異なっていました。日比谷入江のように、海がかなり内陸まで入り込んでいて、たくさんの小島があったそうです。当時の浅草も目の前が海で、浅草寺は江戸湾に浮かぶ小島のような地形の中にあったと言われています。推古天皇36年(628年)、宮戸川(みやこがわ)(現隅田川)で漁をしていた檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が網にかかった観音像を見付け、これを祀ったのが浅草寺の始まりとされています。その後、大化元年(645年)に勝海上人(しょうかいしょうにん)によって浅草寺が開基されます。平安時代の天慶5年(942年)には、雷門や仁王門が作られたと伝えられています。

 

治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると、重継の子・重長(生没年不詳)は、当初平家方として頼朝方の三浦氏と戦っていましたが、その後頼朝に帰服し、鎌倉幕府の御家人となりました。鎌倉幕府滅亡後、江戸氏一族は南北朝の騒乱で新田義貞に従って南朝方につきましたが、その後室町時代に次第に衰退していきます。江戸氏は、戦国末期にその活動拠点を多摩郡喜多見に移していたようです。

 

江戸氏に代わって江戸の地に入ってきたのが、関東管領上杉氏の一族・扇谷上杉家の家宰であった太田資長(おおたすけなが、太田道灌)〔永享4年(1432年)~文明18年(1486年)〕です。この続きは次回、紹介致します。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年3月14日 09:24に書いたブログ記事です。

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