東藝術倶楽部瓦版 20180315:わが庵は松原づづき海近く、富士の高嶺を軒端に見る-道灌の町づくり

 

おはようございます。今週に入り、本当に暖かくなりました。今朝もコートを着ることなく、寒さを感じずに出勤することができました。最近の日本は、暖かくなると一気に気温が上昇し、春を感じる暇もなく夏になるといった感覚を覚えるのですが、皆さんは如何でしょうか? 北京での季節感が、まさにそのような感じです。春と秋は2週間もなかったと感じていました。

 

さて、本日も前回に続き、「江戸時代より前の江戸」を紹介していきたいと思います。前回は、太田資長が江戸に入ったところまででしたね。資長は室町時代の永享4年(1432年)、関東管領扇谷上杉家の家臣・太田資清(おおたすけきよ)〔応永18年(1411年)~長享2年(1488年)〕の子として相模国に生まれました。幼少の頃は鎌倉の建長寺で学び、後に栃木の足利学校でも学んでいます。資長は文武両道に秀でた人物であったといわれています。

 

南北朝で南朝側についた江戸一族を含む秩父一族は、室町時代に衰退の一途をたどります。江戸氏が支配していた江戸の地は、人家もまばらな荒涼たる土地になっていったようです。江戸資継が築いた城館も朽ち果てていました。この荒廃した地に目を付けたのが資長です。江戸氏は資長に追われ、現在の世田谷区喜多見に退きました。当時、江戸は茫漠の地でしたが、資長はこの地の戦略上・戦術上の優位性に目を付け、長禄元年(1457年)に江戸城を築城しました。そしてこの城を拠点として南関東一帯を治めるようになります。

 

資長が江戸に注目した点として、江戸が奥羽へ通ずる要衝の地であること、荒川があることによって水運の便に恵まれていること、荒川はまた敵の侵入を防ぐ自然の要害になっていることなどが挙げられます。車のない時代、川を利用した水運や海での海運は物資の輸送に欠かせない重要な交通手段でした。当時は浅草湊、江戸湊、品川湊などの中世武蔵国を代表する湊があり、これらは利根川や荒川の河口に近く、北関東の内陸部から船を用いて鎌倉、小田原、西国方面に出る中継地点になっていたようです。

 

江戸の開発は、平安時代後期に武蔵国の秩父地方から河越(川越)を通って入間川沿いに平野部へと進められてきました。資長が江戸城を築いた当時、江戸城の北側を流れる平川沿いに、平川の村を中心に城下町が形成されていったものと思われます。戦国時代には「大橋宿」という宿場町が形成され、更には江戸城と河越城を結ぶ川越街道や小田原方面へ向かう矢倉沢往還(やぐらさわおうかん)もこのころに整備されたと考えられています。

 

江戸城を築いた資長は、精勝軒という櫓を建てています。その場所は現在の富士見櫓の場所とされていますが、「わが庵は松原づづき海近く、富士の高嶺を軒端に見る」と詠っているように、日比谷の入り江が江戸城の間近にあったことが分かります。

 

ところで、道灌という名前ですが、これは資長が入道した後の法名で、正式には「春苑道灌」と称していました。太田道灌といえば、「山吹伝説」のお話しがあります。道灌が狩りの途中で越生(おごせ、現在の埼玉県越生町)の地に差し掛かったとき、突然にわか雨が降り出しました。そこで蓑でも借りようと一軒の農家に立ち寄ったところ、一人の娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出しました。道灌は蓑の代わりに花を出されたと立腹し、その農家を立ち去ります。帰宅後、その話を家臣にしたところ、それは「後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)」にある兼明親王(かねあきらしんのう)〔延喜14年(914年)~永延元年(987年)〕の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」という歌にかけて、貧しきがために蓑一つ持ち合わせていないことを奥ゆかしく答えたのだということを知ります。道灌は自分の教養の無さを恥じて、以後歌道に励んだという逸話です。

 

まだまだ「江戸時代より前の江戸」は続きます。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年3月15日 13:02に書いたブログ記事です。

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