東藝術倶楽部瓦版 20180322:秀忠、家光の江戸の町造り-生活のためのインフラ整備

 

おはようございます。明日3月23日から来週27日まで北京に出張してきます。その間、瓦版もお休みさせていただきますので、ご理解の程、よろしくお願い致します。今回の出張は、「中国発展ハイレベルフォーラム」という中国の政府系研究機関「国務院発展研究センター」が主催する国際会議に、私の所属する組織の理事長が正式メンバーとして招待されており、それに随行する(かばん持ち)ものです。24日から26日までの週末を挟んだ3日間、釣魚台国賓館(迎賓館)に閉じこもりとなり、英語ないしは中国語で中国を巡る国際情勢を議論し合うハイレベルな国際会議です。IMF(国際通貨基金)やOECD、世銀、ADB(アジア開銀)の事務総長や総裁、ロイヤル・ダッチ・シェルやプルデンシャル、ネッスル、グーグル等世界に名立たる大手企業のCEO、ジェームス・ヘックマン、マイケル・スペンス、ジョセフ・ステグリッツといったノーベル経済学賞受賞者をはじめとする著名な学者が出席します。ただ聞いているだけの会議ですが、報告をまとめなければならないこともあり、帰国後はかなりヘトヘトになっていることでしょう。

 

さて、本日は「家康後の江戸の町造り」をテーマに話を進めていきたいと思います。豊臣氏を滅ぼし、盤石な政権の基盤を固め、江戸の町が後に拡大できるような形で整備を行った家康が元和2年(1616年)に亡くなります。将軍職は慶長10年(1605年)に既に嫡男秀忠に譲っていましたが、「駿府の大御所」として家康が実権を握っていました。家康の死後、二代将軍秀忠、三代将軍家光と引き続いて江戸城の大改築と江戸の町造りが進められていきます。

 

秀忠は江戸の北東の守りを固めるために、小石川門の西から南に流れていた平川を東に流す改修工事を行います。現在の水道橋から万世橋に至る本郷から駿河台までの神田台地は掘り割って人工の谷を造成し、そこから西へは元々隅田川に流れ込んでいた中川を利用して浅草橋を経由して隅田川に流れ込むようにしました。これが江戸城の北の外堀となっている神田川です。この工事によって平川下流にあった一ツ橋、神田橋、日本橋を経て隅田川に至る川筋は神田川(平川)から切り離されて、江戸城の外堀と内堀の間のもう一つの堀になりました。この堀は、明治時代に再び神田川とつなげられて、神田川の支流である現在の日本橋川になります。

 

三代将軍家光の時代には、江戸城の西側の外郭の整備が行われます。溜池や神田川に注ぎ込む小川の谷筋を利用して溜池から赤坂、四ツ谷、市ヶ谷を経て牛込に入り、神田川につながる外堀を整備しました。この工事は、全国の外様大名を大きく動員して行われ、外堀が完成するのは寛永13年(1636年)でした。上図の御成門から浅草橋門に至る江戸城の「の」の字の外側部分にあたります。これにより、江戸の町の防御、運河による輸送路、生活用水の確保といった街造りのための基本的なインフラが整うことになったのです。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年3月22日 10:33に書いたブログ記事です。

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