東藝術倶楽部瓦版 20180329:外側に広がる江戸の都市化-町は隅田川を越えて深川・永代島へ

 

おはようございます。先週出張前に桜の開花宣言を聞いたばかりなのに、先週末出張中に東京では桜が満開となっているとのニュースを耳にしました。確かに、我が職場に近い皇居北の丸の桜並木はものの見事に咲き誇っており、終日花見客で賑わっています。

 

さて、本日のテーマは「外に広がる江戸の都市化」です。現在の東京の中心部の多くが海辺を埋め立てられて造られたことが、これまでの説明でお分かりいただけたかと思います。このため、井戸を掘っても生活に十分な真水を得ることができず、江戸幕府にとっても水の確保が重要な課題となります。

 

そこで、もともと赤坂にあった溜池が活用されるとともに、井の頭池を水源とする神田上水が寛永6年(1629年)に整備されます。その後、江戸の人口が増えてくると、これだけでは供給不足となり、承応2年(1653年)に玉川上水が造られました。この辺りのお話は、すでに「江戸の上水」のテーマで紹介しましたので、ここでは省略します。

 

寛永13年(1636年)に外堀が完成することで、江戸の都市造りが一段落することになります。しかし、その後も人が更に流入して人口がますます増えていきます。そのために、町の再開発を行い、更には町を外へ拡大する必要が出てきます。そんな折に起きたのが明暦3年(1657年)の明暦の大火です。明暦の大火については、別途説明の機会を設けますが、これによって江戸の町の大部分が焼失し、江戸城天守も炎上してしまいました。



この明暦の大火以降、火事をできるだけ防げるような都市設計が行われ、江戸城西の丸内の吹上に置いていた徳川御三家の屋敷も半蔵門外の紀尾井町に移設するなど、大名屋敷の配置も大きく換えられ、類焼を防ぐための火除地として広い空地や庭園が各地に設けられることになりました。江戸の町も外堀を越えて外側に広がります。隅田川対岸の深川、永代島へと都市化が進むのは、この頃からです。

 

家康以降のこれまでの江戸の町造りの流れを追うと、以下のようになります。

 

慶長から寛永年間(1596年~1644年)までは、江戸城を中心として多くの町が造られ、これらは「古町」と呼ばれ、約300町ありました。明暦の大火以降、新たな年計画が立てられ、京橋木挽町東の海洲部分や赤坂・小日向などの湿地が埋め立てられ、本所深川の開発が始まります。江戸が発展するための基礎が出来上がるのはこの頃です。芝・三田・飯倉から下谷・浅草に至る街道筋の代官支配地に建設された町屋が、「町並地(まちなみち)」として町奉行支配地に組み込まれるのが寛文2年(1662年)頃で、江戸の総町数は674町となります。

 

延宝年間(1673年~1681年)にはほぼ江戸の原形が出来上がります。北は千住から南は品川まで町屋が続き、いわゆる「大江戸」がここに出現します。従来は二里四方とよばれた江戸の町も、この頃には四里四方といわれるまでに拡大しました。正徳3年(1713年)には本所・深川一体や山の手の町屋を町並地として組み入れ、この頃の総町数は933町となりました。延享年間(1744年~1747年)には、町地の強制移転により「代地町(だいちまち)」が増加します。また、居住町人の増加によって、寺社門前町が町奉行の支配下に置かれ、総町数も1,678町までに大きく膨れ上がりました。こうして江戸は世界最大の都市へと、その地位を高めていったのです。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年3月29日 07:24に書いたブログ記事です。

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