東藝術倶楽部瓦版 20180330:江戸幕府-「幕府」の呼称は江戸時代中期から

 

おはようございます。満開の桜も散り始め、いよいよ来週からは4月、新年度が始まります。会社組織や役所では人事異動が行われ、新年度の体制に向けた担当者交代の挨拶に訪れる方も少なくありません。お世話になった方ばかりなので、一人一人に対して丁寧に対応する必要があり、それだけでも1日の大半の時間を要してしまいます。これが朝早くと夜遅く、或いは休日を使ってデスクワークに集中せざるを得ない理由の一つでもあります。

 

さて、本日からは江戸時代の日本を支配してきた「江戸幕府」について紹介していきたいと思います。今回のテーマは「江戸幕府とは?」です。日本で最初に「幕府」が開かれたのは、皆さんもよくご存知の源頼朝による「鎌倉幕府」で、それに続くのが足利尊氏による「室町幕府」です。「幕府」というのは、一般的には武家の最高権力者(征夷大将軍)を中心とした政治組織のことを指します。幕府の語源も中国に由来しています。「幕」は将軍が座する「天幕」を意味し、「府」は古代中国で官物や財貨を収蔵した場所を指します。ただ、この幕府という呼称は、実は江戸時代中期以降に朱子学の影響によって学者の間で使われ始めた概念で、鎌倉幕府、室町幕府という呼び方もこの頃から使われていました。当時の人はこの武家政権を幕府とは呼ばず、「公儀」と呼んでいました。こうした意味から、現在の歴史学者の間では、鎌倉幕府の成立時期に対して論争が生まれています。

 

とはいえ、ここでは便宜上、徳川将軍家による武家政権を「江戸幕府」ということで進めていきたいと思います。江戸幕府の成立は、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた慶長8年(1603年)です。以後、徳川家の当主が正二位内大臣兼右大臣に任ぜられ、290余りの武家大名と主従関係を結んで行われる統治体制、いわゆる封建体制が、大政奉還が行われた慶応3年(1867年)まで続きました。幕末期には、徳川政府を「幕府」、臣従している大名家を「藩」として、「幕藩体制」と呼ばれるようになり、これが今では一般的に使われるようになっています。

 

幕藩体制の基本は、幕府と各藩との間の忠義の精神に基づく協力・連携が重要になります。将軍は大名に対して朱印状を与えて知行を保障し、大名は知行内において独自に統治を行う権限を一程度有していました。当時は「幕府」に対して「公儀」と呼んでいたように、「藩」ではなく「領」、「領分」、「領知」と呼ばれていました。幕藩体制下での将軍と大名との主従関係を確認するために、諸藩の大名に課せられていたのが軍役としての参勤交代であり、築城・治水工事などの手伝普請でした。

 

幕府の基本的な政治体制は老中をはじめとする幕閣によって行われるもので、権力の集中を避けるために主要な役職は複数名を配置、月番制による政務の担当、重要な決定事項の合議制などの措置がとられていました。この具体的な体制については、後日ご紹介したいと思います。もちろん、家康、家光(3代)、綱吉(5代)、吉宗(8代)、家斉(11代)など親政を行っていたとされる将軍もいますが、行政組織なくして事が動かないのも確かです。

 

幕府自身も「公儀」として国内全体の統治を行うとともに、1大名として領分(天領、御領)を支配し、京都所司代、大坂城代、遠国奉行(おんごくぶぎょう)、郡代・代官などの地方官を設置しました。


高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年3月30日 07:58に書いたブログ記事です。

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