おはようございます。今、学校法人「森友学園」への国有地売却を巡って、国会並びに財務省が揺れに揺れています。決裁文書の改ざんや国会答弁での虚偽報告は絶対にあってはならいこととして、一般に認識されているにもかかわらず、こうしたことが日常茶飯事に行われていたとしたら、国民の政府に対する信頼は一気に地の底に堕ちてしまうでしょう。これもまた日本にうごめく大きな膿として、出し切ってしまうことも必要なのかもしれません。
さて、本日も「江戸時代より前の江戸」をテーマに、前回の続きでお話しを進めていきます。太田資長(太田道灌)は、江戸城を築いてからも扇谷上杉家のために力を尽くして、主家の勢力を大きく伸ばしていきます。そのために、資長の信望も高まっていきます。資長は、資長の勢力が大きくなることを恐れた主家の上杉(扇谷)定正によって暗殺されてしまいます。それが文明18年(1486年)のことでした。資長の死後、扇谷上杉家は次第に勢力を失っていくことになります。
扇谷上杉家の没落を決定的なものにしたのが、大永4年(1524年)に武蔵国高輪原(現東京都港区高輪)で起きた「高輪原(たかなわはら)の戦い」です。北条早雲の死後、御北条家二代当主となっていた北条氏綱は、相模国小田原を拠点に武蔵方面への勢力拡大を図っていました。氏綱は扇谷上杉家の家臣に対する調略を進め、同家家臣で江戸城代であった太田資高(資長の孫)を寝返らせることに成功します。これに乗じて氏綱は武蔵への進行を開始し、当時扇谷上杉家の当主であった上杉朝興はこれを迎え撃つために大軍を擁して高輪原に進出しました。当初は一進一退の激しい戦いでしたが、最終的に上杉軍は北条軍に敗れて江戸城に撤退します。しかし、江戸城を支えることも叶わず、最後には江戸城を放棄して河越城に逃げ込み、この合戦は北条軍の勝利に終わりました。これによって江戸城は北条氏の支配下に移りました。
当時、すでに相模国と伊豆国を支配していた北条氏(後北条氏)による江戸支配は、関東における戦国大名の勢力図を大きく変えることになりました。すなわち、江戸湾(東京湾)の西半分が完全に北条氏の支配下になってしまったのです。これ以降、天正18年(1582年)に北条氏が豊臣秀吉によって攻め滅ぼされるまで、北条氏による支配が続きました。ただ、北条氏時代には、江戸は最重要な支城とはみなさされていなかったようです。江戸城も太田資長時代の粗末な造りのままでしたが、それでも江戸は関東南部の要衝であったことは間違いありません。
高見澤