東藝術倶楽部瓦版 20180402:石高制を基礎とする「幕藩体制」

 

おはようございます。今日から新年度、新たな気分で仕事を始めたいところですが、昨年度からの懸案事項が残り過ぎていて、何から手を付けてよいのやら...まずは、そこから整理しなければなりませんね。

 

さて、本日は江戸幕府が築いた「幕藩体制」について説明していきたいと思います。幕藩体制とは、武家政権の頂点に立つ幕府と、それに従う諸藩とを統治機構とした封建制の支配体制を指します。この体制が採られていたのは江戸時代で、鎌倉時代の御恩と奉公に基づく御家人制度、室町時代の守護大名による合議・連合体制(守護領国制)とは異なるものでした。

 

幕藩体制の「幕」は言うまでもなく「公儀」、すなわち江戸幕府で、全ての武士の頂点とした最高統治機関でした。そして「藩」は、各大名がそれぞれの領地で確立していた独立した統治機構を指します。この体制を維持するための基礎が、米などの現物を納めて年貢とする「石高制」です。豊臣秀吉の太閤検地によって形成された石高制ですが、江戸時代には田畑や屋敷などの土地はすべて米の生産力に換算・評価され、それが百姓の所持地から大名の領地まで貫徹されていました。この石高制によって、幕府は大名の所領規模を簡単に把握できるようになり、大名に課する負担や幕府役職の任免も石高に応じて行われていました。

 

幕府は、諸大名を「親藩」、「譜代大名」、「外様大名」に分け、参勤交代や普請の義務付け、改易などの処罰制度によって統制を行っていました。初代将軍家康、二代秀忠、三代家光の時代に知行制や村請制などが確立し、武家に対する「武家諸法度(ぶけしょはっと)」〔慶長20年(1615年)発布〕、朝廷及び公家に対する「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」(慶長20年発布)、寺社に対する「諸宗寺院法度(しょしゅうじいんはっと)」〔寛文5年(1665年)発布〕などの法による統制も行われるようになりました。

 

江戸時代は、「士農工商」の身分制度が採られていたと我々は教科書で教えられてきましたが、最近の研究ではその身分制度は間違いであったことが分かっています。もちろん身分の上下はあり、武士は一部の特権を持つ階級に位置付けられていたことは確かなようです。江戸時代も時を経るに従って、社会構造も変化していきます。商人資本の形成や農村への商品経済の浸透、さらにはそれに伴って身分制度も変わっていきます。こうした変化が社会不安を招くようであれば、幕府や諸藩は幕政改革や藩政改革を行って、再編を試みるようになりました。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年4月 2日 07:24に書いたブログ記事です。

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