東藝術倶楽部瓦版 20180403:江戸時代の大名-守護大名から戦国大名、そして親藩、譜代、外様へ

 

おはようございます。我が職場の近くにある皇居田安門、靖国神社の桜も大分散って、葉桜になっています。今年の桜の開花期間はいつもに比べ、本当に短かったような気がします。そういえば、もう冬服で出勤すると暑いくらいに感じます。地球の気候変動もますます激しくなっているような気がします。

 

さて、本日は「大名」についてお話したいと思います。大名とは、平安時代以降、当初は大きな「名田(みょうでん)」を領有する者が、やがて「家之子郎党(いえのころうとう)」を養って、在地支配する武士のことを指していました。「大名主」が転じた語であり、大いに名前が轟くことを意味しており、名前が轟かない武士のことを指す「小名(しょうみょう)」という言葉もあるそうです。室町時代には守護職が領国支配を強めて「守護大名」になり、戦国時代には更に領国支配を強めた「戦国大名」が生まれました。

 

これが江戸時代になると、石高1万石以上で、将軍に臣従する者を大名と呼ぶようになりました。1石は米俵2.5俵、1俵が60キログラムですから150キログラムになります。1万石では150万キログラム、すなわち1,500トンです。1石は成人男性1人が1年間食べる米の量とされていますので、1万石は1万人の成人男性が1年間食べられる米の量という計算になります。これに対して、石高が1万石に満たない徳川家直属(直参)の家臣を「旗本」、「御家人」と呼びます。直参については、また日を改めて紹介していきましょう。

 

江戸幕府は、徳川将軍家との親疎度合いによって大名を「親藩」、「譜代大名」、「外様大名」の3つに分類したことはご存知かと思います。親藩は徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩で、譜代大名は「関ヶ原の戦い」〔慶長5年(1600年)〕以前に徳川氏に臣従して大名に取り立てられた者、外様大名は関ヶ原の戦い前後に家康に臣礼をとった大名を指します。これら大名は「藩主」とも呼ばれ、封建領主としての性格が中国古来の諸侯と類似していることから、「大名諸侯」と称されています。

 

これら大名の序列は、家格、官位、石高、役職、「伺候席(しこうせき)」によって決められていました。伺候席とは、江戸城に登城した大名や旗本が将軍に拝謁する順番を待つ控えの間です。次回は武家の棟梁として江戸幕府を名実ともに仕切っていた「徳川将軍家」について紹介たいと思います。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年4月 3日 07:43に書いたブログ記事です。

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