東藝術倶楽部瓦版 20180405:天和の治、正徳の治-犬公方・綱吉から家継まで文治政治が続く

 

おはようございます。昨日午後、中国北京では雪が降ったそうです。北京の気象台によると、平均の雪の終わる時期は3月5日で、何と1959年以来59年ぶりのことだとか。先月、北京に出張した際には汗ばむ陽気だったのに、一体この地球の気候はどうなっていくでしょうか?

 

さて、本日は5代将軍綱吉からお話を進めて行きたいと思います。叔父の保科正之や大老・酒井忠勝、老中・松平信綱などの名臣に支えられ、29年にわたる安定政権を築いた家綱ですが、延宝8年(1680年)に40歳の若さでこの世を去ります。家綱には実子がいなかったため、徳川将軍家の直系はここで断絶することになります。5代将軍となったのは、家綱の弟の綱吉(館林徳川家)でした。家光の4男として生まれ、延宝8年に家綱が病気で倒れたことで家綱の養嗣子となり、その死後、将軍宣下を受けることになりました。

 

綱吉は、家綱時代の大老・酒井忠清を廃して、自分の将軍就任に功労のあった堀田正俊を大老とします。正俊を片腕として越後高田藩の継承問題、いわゆる「越後騒動」の裁定し直しや諸藩の政治監査を行うなど、積極的な政治運営に乗り出し、幕府の会計監査のための「勘定吟味役」を設置するなど、有能な小身旗本の登用を行いました。家綱時代から始まった徳を重んじる文治政治を推進し、学問の中心地として「湯島聖堂」を建立しました。こうした綱吉の治世の前半は「天和の治」として称えられられています。貞享元年(1684年)、正俊が若年寄・稲葉正休(いなばまさやす)に刺殺され、側用人の牧野成貞や柳沢吉保らを重用するようになる頃から「生類憐みの令」を発布するなど、評判の悪い悪政が行われるようになったといわれています。このことから、「犬公方」と呼ばれ揶揄されました。

 

綱吉の後を継いで第6代将軍に就いたのは、兄・綱重(家光の3男、甲斐甲府藩主)の子で甥の綱豊(後の家宣)でした。綱吉に男子がいなかったことから、家光の孫である綱豊が将軍嗣子に選ばれ、「家宣(いえのぶ)」と改名して綱吉の養子となりました。宝永6年(1709年)、綱吉が亡くなり6代将軍に就くと悪評の高かった酒税や生類憐みの令を廃止します。柳沢吉保を罷免し、甲府徳川家旧臣の間部詮房(まなべあきふさ)や新井白石らを登用するほか、室鳩巣(むろきゅうそう)など多くの学者を招へいし、文治政治を推進しました。このため、庶民からの人気と期待は高かったといわれています。この家宣と次の7代将軍・家継の治世を併せて「正徳の治(しょうとくのち)」と呼ばれています。しかし、家宣は在職3年後の正徳2年(1712年)、享年51歳で死去、将軍職を継いだのは4男の家継(いえつぐ)でした。

 

家継は数え4歳で将軍となりました。幼少であったため、幕政は生母の月光院、側用人の詮房、顧問役の白石らが主導し、正徳の治が続けられましたが、正徳6年(1716年)、わずか8歳で死去します。この家継の死によって、3代将軍・家光の家系は途絶えることになりました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年4月 5日 07:39に書いたブログ記事です。

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