東藝術倶楽部瓦版 20180419:石高制で諸大名を把握

 

おはようございます。最近のニュースの1面の話題といえば、財務省次官のセクハラ発言に代表される政治家や官僚の女性問題です。経済や外交で大きな問題を抱え、適切な対処をしていかなければならない時期に、なぜこのような問題に国民の目を向けさせなければならないのでしょうか?もちろん、女性にとっては無視できない問題であることは分かりますが、シリアや北朝鮮を巡る地政学的問題や米国との貿易摩擦などの経済問題は、国民生活を根本から揺るがせかねない問題であることを、国民全員に理解してもらいたいところです。

 

さて、前回、徳川将軍家の石高は最盛期で450万石を超えていたことをご紹介しましたが、それでは将軍家以外の大名の石高はどうだったのでしょうか? と、この疑問に答える前に、まずは「石高制」について、少し説明をしておかなければなりません。

 

太閤検地によって石高制が採用されるようになる前、戦国大名は「貫高制(かんだかせい)」によって検地を行い、軍役を定めていました。この貫高制というのは、土地の面積と大よその土地の質によって年貢高が定められ、実際の収穫量とは乖離したものだったようです。石高制の導入によって全国で統一された土地評価の基準が作られ、それに基づいて年貢高が定められ、諸大名への恩賞や懲罰にも適用されることになります。原則として検地丈量によって「石盛(こくもり)」という一反当りの平均収穫量が定められて、土地の広さと合わせて石高が決まります。これが、大名の領地の基準になるわけです。

 

江戸時代初期に定められ、将軍家から諸大名に分け与えられた所領の額面上の石高を「表高(おもてだか)」と呼び、幕末まで変わることはほとんどありませんでした。しかし、実際には新田開発や検地の徹底、生産性向上などによって実際の生産量は大きく変わってきます。諸藩では、この「内高(うちだか)」と呼ばれる実際の収穫量によって年貢が納められていました。表高は、大名の知行や家格を表す名目上の数字でしか過ぎなくなりましたが、幕府としては大名の所領規模を把握できるようになり、加封・減封・転封などの論功行賞や処罰などが容易にできるようになりました。この石高については、米のみならず、その他の農産物や製塩・加工食品などの工業製品も含まれていたことは、前回お話しした通りです。

 

江戸時代中期の日本の総石高は約3,000万石であったことは前回述べた通りです。このうち、約75%の2,250万石を占めていたのが大名領(藩領)、次いで約13%の400万石を占めていたのが幕府直轄領でした。その他は旗本知行が約300万石、寺社領が40万石、公家領が7万石、天皇の禁裏御料が3万石であったと言われています。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年4月19日 10:15に書いたブログ記事です。

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