東藝術倶楽部瓦版 20180423:諸藩の石高-外様に厚く配分、でも...

 

おはようございます。先週金曜日は失礼しました。朝から立ち寄りで日本商工会議所の三村明夫会頭のところに行くことになってしまい、本メルマガが発信できませんでした。日本経済界を代表する一人ですが、気さくに分かり易くご自分の意見を言われるので、よくテレビでもコメントを求められています。

 

さて、本日は「諸藩の石高」について紹介していきたいと思います。家康が政権を握った江戸時代当初から幕末まで、論功行賞による加封、処罰による減封や移封、改易による藩の断絶などによって、諸藩の石高が変わっているので、そのすべてを調べて紹介するわけにはいきません。そこで、どこかの時点での状況を紹介するのが適切ではないかと思い、ここでは「寛文印知(かんぶんいんち)」に記された寛文4年(1664年)当時の主な大名の石高について紹介します。

 

江戸時代、1万石以上の所領を有する藩の数についも開府当初から幕末まで変化していますが、概ね250から300ほどであったようです。明治を迎えたときには約270の藩が存在していました。ということで、一般には「江戸300藩」、「三百諸侯」などと呼ばれています。「寛文印知」には219の藩の状況が記されていますが、そこには将軍家、御三家など主な親藩の状況はありません。

 

この時の将軍は家綱ですが、徳川将軍家の石高は279万石余でした。このとき、将軍家以外で最も石高が大きかったのが加賀金沢(前田)藩の1025,000石で、二番目が陸奥仙台(伊達)藩の62万石余と外様が続き、三番目が御三家の尾張名古屋(徳川)藩の619,500石余、四番目が薩摩鹿児島(島津)藩の605,000石余とまた外様になります。島津藩にはこれに琉球首里の123,000石余が加わると73万石近くになってしまい、前田藩に次いで第2位となります。五番目は御三家の紀州和歌山(徳川)藩の555,000石余、六番目が外様の肥後熊本(細川)藩の54万石、七番目は親藩の越前福井(松平)藩の525,000石余です。50万石以上の所領を有する大名は、以上の7藩で、徳川将軍家が圧倒的に優位な財政を抱えていたことが分かります。それに加え、少し驚くのは外様の所領が大きいことです。これは、比較的江戸から離れたあまり重要でない場所を所領する代わりに、規模を大きくすることで納得してもらう意味合いがあったのではないかと思われます。もっとも石高が大きい分だけ、幕府のために供する賦役も大きくなるわけですが...。

 

次に30万石以上の大名を挙げると、大きい順に筑前福岡(黒田)藩の433,000石余(外様)、安芸広島(浅野)藩の376,500石(外様)、長州萩(毛利)藩の369,000石余(外様)、肥前佐嘉(鍋島)藩の357,000石余(外様)、伊勢津(藤堂)藩の329,000石余(外様)、因幡鳥取(池田)藩の32万石(外様)、備前岡山(池田)藩の315,000石余(外様)、近江彦根(井伊)藩の30万石(譜代)、出羽米沢(上杉)藩の30万石(外様)の9藩です。これに続くのが御三家の常陸水戸(徳川)藩の285,300石余ですが、水戸藩はその後加増されて幕末には35万石になります。譜代で一番大きかったのが彦根の井伊藩でした。このほか、酒井、本多、榊原など多く譜代は20万石未満の所領ではありましたが、比較的重要な場所に配されていました。

 

こうした江戸時代の各藩の領地、石高を追っていくだけでも何冊もの本になるくらい、その情報と変化は相当な量になります。

 

高見澤

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2018年4月23日 09:25に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20180419:石高制で諸大名を把握」です。

次のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20180424:親藩の最上位「御三家」」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ