東藝術倶楽部瓦版 20180424:親藩の最上位「御三家」

 

おはようございます。先週末は相当に暑かった東京ですが、今週に入り一転して涼しい日が続きます。今朝は曇りですが、午後から雨が降るとの天気予報です。そろそろ冬服をクリーニングに出したいのですが、判断に迷うところです。とはいえ、連休明けには夏服での出勤に切り替えるつもりです。

 

さて、本日は「江戸の大名」の「親藩」、なかでも特に「御三家」について紹介していきたいと思います。江戸時代の大名は徳川将軍家とのつながりの深浅によって「親藩」、「譜代」、「外様」に分けられていたことは、以前お話しした通りです。親藩とは徳川将軍家の一門、すなわち徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている大名(藩)を指し、特に「御三家」、「御三卿」の当主は将軍家の血筋が絶えた後など、将軍を出す役割を担う家柄として、「三つ葉葵」の家紋使用のほか、「徳川」姓を名乗ることが許されていました。もっとも御三家、御三卿は特別な存在として、狭義の意味では親藩として扱われていませんが、御三家は親藩の最高位にあったことは間違いありません。

 

御三家、御三卿以外の親藩は、一般に「松平」姓を名乗っていました。家康の男系男子の子孫のほか、家康の女系男子子孫である「奥平松平家」、家康の異父弟子孫の「久松松平家」、徳川家光・綱吉の正室の実家・鷹司家の出身である「鷹司松平家」なども親藩に準ずる扱いとなっていたようです。

 

一般に御三家といえば、家康の九男・義直(よしなお)を始祖とする「尾張徳川家」62万石、十男・頼宣(よりのぶ)を始祖とする「紀州徳川家」56万石、十一男・頼房(よりふさ)を始祖とする「水戸徳川家」35万石を指すことは、歴史の教科書で習ったところです。しかし、水戸家は頼房が秀忠の三男・忠長の「駿河徳川家」55万石が改易となった後、寛永13年(1636年)に徳川姓を賜姓された家であり、尾張家や紀州家に比べると官位・官職の点では下位に置かれていました。とはいえ、朝廷に対する次期将軍の奏聞や江戸常勤であったことから、綱吉の頃から他の2家と合わせて御三家と呼ばれるようになりました。

 

確かに官位をみてみると、尾張家と紀州家は「従二位権大納言」ですが、水戸家は「正三位権中納言」で家格は下がります。ちなみに駿河徳川家は「大納言」でした。江戸初期には、徳川将軍家と尾張家、紀州家を指して御三家、あるいは大納言である尾張、紀州、駿河を指して御三家という場合もあったようです。

 

この御三家が配された場所は、江戸幕府にとって最も重要な地でした。尾張名古屋は江戸から上方に向かう東海道と中山道(東山道)が通っており、紀州和歌山は上方と江戸を海で行き交う菱垣廻船(ひがきかいせん)等が通過する紀淡海峡(きたんかいきょう)に面する場所でした。また、常陸水戸は江戸から陸奥国方面に向かう水戸街道の途上にあったのです。西側からの陸路と海路、北からの陸路を押さえることが江戸防衛の要であったわけです。

 

この御三家から出た将軍としては、8大将軍の吉宗がおり、以降14代将軍・家茂までは紀州家の血筋です。15代将軍・慶喜は御三卿の一橋徳川家(紀州家の血筋)から将軍になりましたが、元々は水戸家から養子となっていたので、血筋としてはあくまでも水戸徳川家です。将軍継承時には、尾張家から迎える案もありましたが、結果として尾張家から将軍が出ることはありませんでした。

 

高見澤