おはようございます。このゴールデンウイーク、皆さんはどのようにお過ごしでしたでしょうか。天気にも恵まれ、旅行や娯楽、買い物など各地にお出掛けになった方も多かったのではないかと思います。結局のところ、当方はどこへも出かけることなく、唯一3日の晩に義母の世話をしつつ食事に出たぐらいで、後は家でパソコンや資料とにらめっこの毎日でした。テレビのニュースで高速道路の渋滞状況を見て、巻き込まれずに良かったと思う反面、少し寂しい気にもなります。
さて、本日は「外様大名」について紹介していきたいと思います。元々「外様(とざま)」とは、封建社会において、主君の親族や一門、譜第(譜代)に対して、繋がりが比較的疎遠にある家臣を指していました。例えば、鎌倉時代の執権北条氏得宗家においては、直臣を「身内人(みうちびと、みうちにん)」と呼んだのに対し、将軍と主従関係にある一般の御家人を「外様」と称していました。また、室町時代には、足利将軍家と元々関係が希薄であった守護大名を「外様衆」と言っていたそうです。この時代において、外様衆は幕政に関わることはほとんどなく、軍事動員などに応じる場合が多かったようです。
これが江戸時代になると、関ヶ原の戦いの前後に、徳川氏に臣従した大名を指すようになります。外様大名は、譜代大名と比べ大領を治めることが多いことが分かります。豊臣政権下においては、家康も秀吉の家臣という立場であり、一大名に過ぎなかったわけで、譜代ともなればその一大名の家臣でしかなかったわけです。つまり、外様大名は豊臣政権下では家康と同じ立場にあり、秀吉から各地にそれなりの規模の知行を与えられていたのです。徳川幕府が如何に大きな力を有しようと、広い国土を無難に治めていくには、やはりそれぞれの地に基盤を有していた大大名の力を借りる必要があったわけです。
とはいえ、江戸を囲む関東、天皇・公家がいる京、経済の中心地大坂、駿府や尾張など東海道沿いなどの戦略的な要衝に外様を配置することはしませんでした。関ヶ原の戦いで東軍(家康側)についた大名で、要衝の地を治めていた大名は「加増」という恩賞の名の下、僻地へと転封されるなど、大領を治めるきっかけとなったわけです。当初は加増され優遇された外様大名ですが、江戸幕府に警戒され、江戸初期には些細な不備を咎められて改易となる大名も少なくありませんでした。
石高の多い順にトップ10〔文久3年(1863年)時点〕の外様大名を挙げてみると、以下のようになります。
①前田家(加賀 金沢藩) 120万石
②島津家(薩摩 鹿児島藩) 72.8万石
③伊達家(陸奥 仙台藩) 62万石
④細川家(肥後 熊本藩) 54万石
⑤黒田家(筑前 福岡藩) 47.3万石
⑥浅野家(安芸 広島藩) 42.6万石
⑦毛利家(長門 萩藩) 36万石
⑧鍋島家(肥前 佐賀藩) 35.7万石
⑨藤堂家(伊勢 津藩) 32.39万石
⑩池田家(因幡 鳥取藩) 32万石
江戸幕府の幕政運営に当たり、多少の例外はありますが、原則として外様大名は幕閣の要職には就けませんでした。また、血縁関係や功績により、譜代に準ずる扱いを受けることが許された外様大名がいました。こうした外様大名は幕府に願い出て認められることから、「願い譜代(ねがいふだい)」、或いは「準譜代大名」と呼ばれています。なかには、前回説明した「十八松平」にも名を連ねるような「松平」の名字を授与された大名もありました。主な願い譜代は以下の通りです。
相馬氏 陸奥中村藩 6万石
脇坂氏 播磨龍野藩 5.1万石
加藤氏 近江水口藩 2.5万石
秋田氏 陸奥三春藩 5万石
諏訪氏 信濃高島藩 3万石
戸田氏 出羽新庄藩 6.8万石余
藤堂氏 伊勢津藩 32.3万石
真田氏 信濃松代藩 10万石
高見澤