東藝術倶楽部瓦版 20180508:総数は約5,000、それでも「旗本八万騎」とはこれ如何に?

 

おはようございます。本日から中国の李克強首相が日本を公式訪問します。明日、開かれる日中韓首脳会談に出席するためです。今回の李首相の訪日については、あくまでも外交日程ということで、官邸や外務省など日本政府が取り仕切っているので、我々経済界としては明後日(10日)昼の歓迎レセプションに参加するのみで特段大きな業務はありません。ただ、李首相の訪日に伴って来日する各省の省長(知事)や経済関連機関との交流イベントが目白押しで、その準備で追われているところです。10日午後、李首相が北海道に向かえば東京サイドは少し落ち着くことでしょう。

 

さて、前回で大名の紹介が終わったところで、本日と次回は江戸時代の「旗本」、「御家人」についてお話ししたいと思います。先ずは「旗本」について紹介しましょう。

 

旗本とは、中世から近世にかけての武士の身分の一つとして、元々は戦場にあって主君を護衛する直属の武士団を指していました。いわゆる「近衛兵」といったところでしょうか。これが江戸時代になると、徳川将軍家直属の家臣団(直参)として、そのうち石高が1万石未満で、儀式など将軍がお出ましする際には席に参列できる「御目見え(おめみえ)」以上の家格をもつ者を指すようになりました。旗本は、一般に将軍から土地、或いは蔵米(くらまい)〔将軍の米蔵から俸禄として支給される米〕が給与されていました。旗本が領有する土地を「知行所(ちぎょうしょ)」と呼んでいました。徳川将軍家直参の旗本は、三河時代から徳川氏に仕えてきた家臣が基本を成していましたが、その他にも北条、武田、今川の遺臣、大名の一族、改易大名の名跡を継ぐ者、大名になれなかった地方の豪族などから旗本になったケースも少なくありません。

 

旗本は諸藩の家臣と違い、「地方知行」といって実際に土地を与えられることが多かったようです。知行地の石高が高い者は特に「大身(たいしん)旗本」と呼ばれ、3,000石以上の「寄合(よりあい)〔旗本寄合席〕」、または2,000石以上で「守名乗り(かみなのり)」ができた者を指していました。寄合とは、3,000石以上の上級旗本無役者・布衣(六位)以上の退職者の家格を指します。また、旗本の中には「交代寄合」と呼ばれる参勤交代を特に認められた家があり、一般的には石高の高い家が多かったようです。

 

旗本の家格には、これとは別に「高家(こうけ)」というものがあります。これは江戸幕府における儀礼や典礼を司る役職を担うことが認められた家格の家で、当初は石橋、吉良、今川の3家で、後に26家〔有馬、一色、今川、上杉、大沢、大伴、織田、京極、三河吉良、武蔵吉良、五島、品川、武田、長澤、土岐、戸田、中条、畠山、日野、前田(藤原)、前田(菅原)、宮原、最上、由良、横瀬、六角〕まで増えています。この高家は1,000石級の者が多く、家柄や官位に比して家禄は少なかったようです。高家の中でも高家諸氏の采配に月番で当たる3名は「高家肝煎(こうけきもいり)」と呼ばれ、10万石級の大名と同じ従四位から正四位の官位を与えられることもありましたが、石高は最高でも5,000石未満だったとのことです。また高家は、他の幕府役職に就くこともできず、寄合にも入りませんでした。

 

旗本は次回ご紹介する「御家人」と同じく、「武家諸法度」によって統制され、高家や交代寄合を除いて若年寄の支配下に置かれていました。原則は江戸集住でしたが、知行所支配に関しては大名と同じく行政権や司法権を有していました。旗本は、俗に「旗本八幡騎」と呼ばれていますが、享保7年(1722年)の調査によれば、旗本の総数は約5,000人、御目見え以下の御家人を含めても約1万7,000人だったといわれています。ただ、旗本と御家人の家臣を含めると8万人であったようです。旗本で5,000石以上の者は交代寄合を含め約100人、3,000石以上は約300人で、その9割は500石以下であったといわれています。しかし、石高が低い割には軍役負担が大きく、旗本の窮乏化が大きな問題となり、寛政の改革での「棄捐令(きえんれい)」にもつながっていったようです。

 

旗本の江戸幕府での役職ですが、江戸では江戸城の警備や将軍の護衛を行う武官の「番方(ばんかた)」、行政・司法・財政などを担当する文官の「役方(やくかた)」に就き、無役の旗本は3,000石以上は寄合、それ以下は「小普請支配(こぶしんしはい」に編入されていました。番方には大番組、書院番組、小姓組番、新番組、小十人組の五番方(大番、書院番、小姓組を「番方三役」という)のほか、徒士(かち)組、百人組、先手組などがあり、常備軍として殿中や城門の守衛、城番、主君出行時の供奉(ぐぶ)などが主な職務でした。それら組織は「番頭」、「組頭」、「番士」や「頭」、「与力」、「同心」などの役職で構成されていました。一方、役方としては「町奉行」、「勘定奉行」、「大目付」、「目付」などの役職がありました。

 

旗本としての最高位の役職は「江戸城留守居」でしたが、御三卿創設以降はその家老職も江戸城留守居に準ずる地位とされていたようです。このほか、5,000以上の大身旗本は「将軍側衆」、「御側御用取次」、「大番頭」、「書院番頭」、「小姓組番頭」、「駿府城代」に就任することができました。1,000石級の旗本としては、地方の重要都市に置かれていた「遠国奉行」に就くことが多かったようですが、「伏見奉行」は譜代大名からも任じられることがある別格のポストとして位置付けられていました。100石から200石の小禄の旗本は小十人組の番士、納戸、勘定、代官、広敷、祐筆、同朋頭、蔵奉行、金奉行、普請下奉行、具足奉行、書物奉行、寺社奉行吟味薬調役、勘定吟味改役などの諸役に就き、その下位の役職には御家人が就任していました。それぞれの役職については、追ってご紹介していきたいと思います。

 

江戸時代の著名な旗本としては、青木昆陽、新井白石、大岡忠相、大久保忠教(彦左衛門)、吉良義央(上野介)、遠山景元などがいます。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年5月 8日 10:20に書いたブログ記事です。

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