東藝術倶楽部瓦版 20180510:お決まりの四家から選ばれる「大老」

 

おはようございます。昨日、ホテルニューオータニの中庭の見える部屋で、次の会見を待っているときに、日中韓首脳会議を終えた中国の李克強総理が、程永華駐日大使と並んで中庭を歩いている姿を見かけました。王毅国務委員(副総理級)兼外交部長(大臣)がその後ろに従い、周りには多くのSPが取り囲んでいました。ホテルの周りも厳戒態勢で、雨の中、多くの警察官が濡れながら警備を行っていました。ホテルの敷地内ばかりか、周辺の道路を通るのにも一瞬の緊張感が走ります。

 

さて、これまで江戸幕府の幕藩体制の根幹を成す徳川将軍家、大名、旗本、御家人等について説明をしてきましたので、本日からは「幕府の役職」について紹介していきたいと思います。江戸幕府において、最高権力者は征夷大将軍であることは言わずもがなです。その将軍をトップに、「大名役」という上位の役職、「旗本役」と呼ばれる中位の役職、そして「御家人職」という下部組織が存在していました。

 

大名役には、幕府首脳で「幕閣」と呼ばれる「大老(大老格を含む)」、「老中(老中格を含む)」、「若年寄」の三役があり、将軍の側近である「御側御用人(おそばごようにん)」と「御側御用取次(おそばごようとりつぎ)」、城中における武家の礼式を管理する「奏者番(そうじゃばん)」、宗教を管轄する「寺社奉行」、地方行政機関としての「京都所司代」、「大坂城代」がありました。

 

先ず大老ですが、広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指していました(豊臣政権下における「五大老」など)が、江戸時代の大老は将軍の補佐役として、臨時に老中の上に置かれた最高職を指し、定員は原則として1名、重要な政策決定のみに関与し、日常業務は免除されていました。この大老職に就けるのは徳川将軍家と縁の深い10万石以上の譜代大名で、「大老四家」、すなわち井伊、酒井(雅楽頭流)、土井、堀田の4家に限定されていました。江戸幕府約260年のうちで、就任したのは12名(⑧井伊直興と⑨井伊直は改名して再任しており、一人物)しかいませんでした。この4家以外にも、譜代10万石以上の大名が同じ任務に任命されることもありましたが、これは大老ではなく「大老格」と呼ばれていました。

 

大老を務めた大名は以下の通りです。

① 井伊掃部助直孝 近江彦根藩30万石 従四位上行 寛永9年(1632年)頃~不明

② 酒井雅楽頭忠世 上野厩橋藩12万石 従四位下行 寛永13年(1636年)

③ 土井大炊頭利勝 下総古河藩16万石 従四位下行 寛永15年(1638年)~寛永21年(1644年)

④ 酒井讃岐守忠勝 若狭小浜藩11万石 従四位上行 寛永15年(1638年)~明暦2年(1656年)

⑤ 酒井雅楽頭忠清 上野厩橋藩15万石 従四位下行 寛文6年(1666年)~延宝8年(1681年)

⑥ 井伊掃部頭直澄 近江彦根藩30万石 従四位下行 寛文8年(1668年)~延宝4年(1676年)

 堀田筑前守正俊 下総古河藩13万石 従四位下行 天和元年(1682年)~貞享元年(1684年)

井伊掃部頭直興 近江彦根藩30万石 従四位下行 元禄10年(1697年)~元禄13年(1700年)

⑨ 井伊掃部頭直 近江彦根藩30万石 従四位上行 宝永8年(1711年)~正徳4年(1714年)

井伊掃部頭直幸 近江彦根藩30万石 従四位上行 天明4年(1785年)~天明7年(1787年)

井伊掃部頭直亮 近江彦根藩30万石 従四位上行 天保6年(1836年)~天保12年(1841年)

井伊掃部頭直弼 近江彦根藩30万石 従四位上行 安政5年(1858年)~安政7年(1860年)

⑬ 酒井雅楽頭忠績 播磨姫路藩15万石 従四位下行 元治2年(1865年)~慶応元年(1865年)

 

そして大老格を務めたのは下記の通りです。

① 柳沢美濃守吉保 甲斐甲府藩15万石 従四位下行 宝永3年(1706年)~宝永6年(1709年)

 

当初は譜代大名の名誉職的な意味合いが強かった大老職ですが、中には権力を自らに集中させる大老もいました。幕政に大きな影響を与えることができた役職だけに、反対派から恨みをかうことも少なくありませんでした。在職中に殺害される大老もあり、堀田正俊は従叔父で若年寄の美濃青野藩主・稲葉正休(いなばまさやす)に江戸城内で刺殺され、また井伊直弼は江戸城桜田門外で尊王攘夷派の水戸脱藩浪士ら18名に暗殺されています。