東藝術倶楽部瓦版 20180514:老中・側用人への出世コース「若年寄」

 

おはようございます。東京都心では、昨日午後から降り始めた雨も今朝はすっかり上がり、しばらくしたら晴れ間も見え、気温が上昇するようです。最近の気温の寒暖差に、身体が付いていくのも少し時間がかかりそうです。こうした最近の異常な天候は、人間の精神にも何らかの影響を及ぼすのでしょうか? 先週の新潟や昨晩の千葉では、いずれも幼い女児が殺される痛ましい事件が起きています。常に気の休まらない事件が続きます。

 

さて、本日は「若年寄」について紹介したいと思います。江戸幕府における若年寄は、老中に次ぐ幕府の重職であり、老中が全国支配を担当していることに対し、若年寄は主に旗本や御家人の支配を中心に将軍家の家政を担当していました。

 

若年寄の始まりは、寛永10年(1633年)に3代将軍・家光が側近6人を日常の雑務を行わせる「六人衆」としたことにあると言われています。その6人は以下の通りです。藩名と石高は六人衆に就任した時期に最も近い前後の時期のものです。

松平信綱 武蔵忍藩3万石 老中を兼務

堀田正盛 武蔵川越藩3.5万石 後に老中

三浦正次 下総矢作(やはぎ)藩1万石

阿部忠秋 下野壬生(みぶ)藩2.5万石 後に老中

太田資宗 下野山川藩1.56万石

阿部重次 武蔵岩槻藩5.9万石 後に老中

 

このうち、信綱、正盛、忠秋、重次の4人が老中となり、六人衆の意義がなくなり一旦は廃止され、その職務は老中に吸収されます。しかし、その後寛文2年(1662)年に若年寄として復活しました。

 

若年寄の定員は原則として4人、小禄の譜代大名から任命され、老中、老中格、側用人に出世するための経験職でもありました。とはいえ、江戸時代に若年寄を務めた161名のうち、老中まで出世できたのはその5分の1程度と言われていますので、狭き門だったといえるでしょう。こちらも老中と同じく月番制でした。若年寄の出勤時間は朝五つ(午前8時)と老中よりも早く、退勤時間は老中が帰宅した後とされていました。

 

若年寄が所管する役職も多岐にわたりますが、そのうち旗本役の職位は以下の通りです。

西の丸留守居、鉄砲百人組頭、新番頭、持弓頭・持筒頭、定火消役(じょうびけしやく)、小姓、中奥小姓、先手頭・弓頭・鉄砲頭、目付、使番、書院番組頭、小姓組組頭、鉄砲方、西丸裏門番之頭、徒頭、小十人頭、小納戸、船手、二の丸留守居、納戸頭、腰物奉行、鷹匠頭、奥祐筆組頭

 

この他にも、江戸城内の馬、台所、歌、医薬・治療、天文、保安、物資調達等の役職が若年寄の管轄下にありました。

〔天文方も若年寄の管轄下にあった。〕

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年5月14日 09:09に書いたブログ記事です。

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