おはようございます。今朝の東京都心は5月とは思えないほどの日差しの強さで、今日も気温がかなり上昇する兆しが見えています。寒暖の激しさに加え、最近の地震・火山噴火の活発化などの現象を鑑みると、地球の磁場に何らかの異常が生じ、人間の精神にもかなりの影響を及ぼしているのかもしれません。特異な犯罪の多発もうなずけるところです。
さて、本日も江戸時代の役職で大名役の続きです。今回は「寺社奉行(じしゃぶぎょう)」と「奏者番(そうじゃばん)」について紹介したいと思います。
先ず寺社奉行ですが、読んで字の如く、寺や社の土地、建物、僧侶、神官など宗教に係る一切を担当した行政機関です。一般に、江戸時代に寺社奉行があったことは知られていますが、実は鎌倉時代から室町時代にかけてもこの機関が設置されていました。鎌倉時代には主として幕府直轄領の寺社を管理監督、室町時代は基本的に鎌倉時代の制度を踏襲したものの、仏寺を担当する「寺奉行」と神社を担当する「社家奉行(しゃけぶぎょう)」が設置され、さらには特定の宗派や寺社を担当する「別奉行(べつぶぎょう)」なるものが配置されていました。
江戸幕府において寺社奉行が正式に設置されたのは3代将軍・家光の時代で、寛永12年(1635年)に寺社や遠国における訴訟担当の「諸職(しょしき)」として創設されたのがその始まりです。それまでは、僧侶の以心崇伝(いしんすうでん)と京都所司代を務めていた板倉勝重に寺社に関する職務に当たらせて〔慶長17年(1612年)~寛永10年(1633年)〕おり、勝重、崇伝の死去により寺社の担当者が不在となっていました。
寺社奉行は、初めは将軍直轄でしたが、寛永15年(1638年)に老中制度の確立とともに老中の所管となりますが、その後4代将軍・家綱の時代、寛文2年(1662年)に将軍直属に戻りました。町奉行、勘定奉行の両奉行とともに「三奉行」と呼ばれ、評定所を構成し、両奉行が旗本役であるのに対し、寺社奉行が大名役であることから、三奉行の筆頭格として位置付けられています。定員は3名~5名で一般的には4名とされ、原則として1万石以上の譜代大名から任命され、奏者番を兼務していました。月番制で、自宅を役宅としていました。
寺社奉行の主な任務は、全国の寺社や僧職・神職の統制のほか、門前町民や寺社領民、修験者や陰陽師等の宗教者、更には楽人(がくにん)や連歌師等の芸能民、古筆見(こひつみ)、碁将棋師(ごしょうぎし)なども担当していました。更に、関八州、五畿内、近江、丹波、播磨を除いた諸国私領の訴訟を聴取したほか、寺請制度の下、宗門人別改帳(庶民の戸籍)は寺社が管理していたことから、婚姻・移住の管理や通行手形の発行なども担っていました。寺社奉行を務めた後、大坂城代や京都所司代などの重役に就くこともあり、最終的には老中にまで上り詰める者もいました。
次に奏者番ですが、略して「奏者」とも呼ばれ、こちらは大名や旗本が年始、五節句、朔望などに将軍に謁見するとき、或いは在国の大名が献上品を使者に持たせて江戸城に派遣した際に、その姓名や進物を披露し、将軍の下賜品を伝達することが主な役目でした。また、大名の転封などの重要な決定や大名家の不幸に際して「上使」として使わされたり、将軍家や御三家の法要において将軍が参列できない場合の代参、将軍の御前で元服を行う大名・世子に礼儀作法を教えるなど、幕府の典礼を司っていました。ちなみに、対朝廷関係の典礼は、旗本のところで紹介した「高家」が担当していました。
慶長8年(1603年)に家康が、室町幕府の礼法に詳しかった奉公衆出身の本郷信富をこの役に任命したことが始まりとされていますが、それ以前にあったとする説もあるようです。その後、奏者番の役職は制度化され、定員は特に定めはありませんが一般に20~30名で、原則として1万石以上の家格の譜代大名から任じられていました。当番、助番(すけばん)、非番などがあり、交替で勤めていました。
多くの場合、大名としては初任の役職となるため、出世の登竜門的な役職となっており、大名や旗本と将軍との連絡役であることから、大目付や目付と並ぶ枢要な役職でもありました。万治元年(1658年)以降、奏者番のうち4人は寺社奉行を兼任するようになり、寺社奉行を経て若年寄、大坂城代、京都所司代、老中へと出世する者もいました。文久2年(1862年)閏8月に文久の改革により一旦廃止されますが、翌文久3年(1863年)10月に再置されています。
尚、奏者番とは別に、将軍世子に対して同じ職務を行う「西の丸奏者番」という役職がありました。
高見澤