東藝術倶楽部瓦版 20180517:西国大名の監視役-「京都所司代」と「大坂城代」

 

おはようございます。今週に入り、東京ばかりではなく、日本全国で気温の高い日が続いています。今朝の東京は曇りで、昨日に比べれば1℃ほど最高気温は下がるものの、湿度が高く、蒸し暑くなるとの予報です。

 

さて、本日は「京都所司代」と「大坂城代」について紹介したいと思います。これもまた、大名役の役職です。

 

先ずは京都所司代からです。京都所司代は、永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を擁して上洛し、京都を支配下に置いた際に、京都の治安維持のために家臣の村井貞勝を任じたのが始まりのようです。貞勝の死後、豊臣秀吉がそれを踏襲、江戸時代へと引き継がれます。「所司代」の名称は、室町時代の「侍所所司代」に由来しますが、元々はこの侍所の長官を「所司」といい、その代理が「所司代」と呼んでいました。江戸幕府は侍所を設けず、鎌倉幕府時代の「六波羅探題」や室町幕府の所司代にならって設置されたものと考えられています。

 

関ヶ原の戦い後、徳川家康は奥平信昌を京都所司代に任じますが、慶長6年(1601年)に板倉勝重、元和6年(1620年)にその子重宗、承応3年(1654年)に牧野親成が後を継ぎ、京都市中の治安が固まるのと同時に、畿内近国における幕政が大きく前進しました。このため、寛文8年(1668年)に京都支配など民政上の権限を「京都町奉行」に譲り、京都周辺部やそこにある皇室領・公家領を管理するのは「京都代官」が担うことになりました。

 

以後、京都所司代は老中への出世の通過点にもなったことから、地位は高かったものの、幕政上の政治力は急激に低下していきました。このため、幕末の動乱期には京都所司代の力の無さが露呈し、その上位機関として「京都守護職」が設けられています。

 

京都所司代の主な任務は、京都の治安維持のほか、朝廷や公家の監察、京都・伏見・奈良の三奉行の支配、西日本諸大名の監視、五畿内(摂津、山城、大和、河内、和泉)及び近江、丹波、播磨の8カ国の民政の総括でした。京都の市政を預かる京都町奉行や宮中・御所の監督にあたる「禁裏付」などの役職は、平時は所司代の指揮に従っていましたが、本来は老中の所管となっていました。

 

京都所司代の定員は1名、3万石以上の譜代大名から任じられ、役料として1万石が給され、与力30騎(後に50騎)、同心100人が付属していました。所司代の役所や住居は二条城の北に隣接した場所に設けられていました。慶応3年(1867年)、江戸幕府の終焉とともに京都所司代もその役割を終えました。

 

次に大坂城代です。松平忠明 慶長20年(1615年)大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、家康は功績のあった松平忠明を摂津大坂藩10万石の藩主として、戦災復興の任にあたらせます。忠明は復興の手腕を高く評価され、元和5年(1619年)に大和郡山藩12万石に加増・移封されます。それ以降、大坂は江戸幕府直轄地となり、大坂城に城代が置かれるようになりました。

 

大坂城代の主な任務は、大坂城下の諸役人の統率と大坂城の防備、西国大名の動静の監視です。5、6万石以上の譜代大名から任命され、大坂城に駐在、幕末まで述べ70名が就任しています。役知1万石が加増される重職で、奏者番、寺社奉行から大坂城代、京都所司代を経て老中になった者も少なくありませんでした。かつては、西国に変事が起きた際には、大坂城代は江戸の許可を得ずに独断で行動が許されており、そのために白紙の将軍の印判状を有していたといわれていますが、真偽の程は定かではありません。

 

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年5月17日 08:20に書いたブログ記事です。

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