東藝術倶楽部瓦版 20180522:幕府の財政を司る「勘定奉行」

 

おはようございます。今朝の東京都心は、昨日よりは少し涼しい感じがしますが、日中は昨日と同じくらいまで上がりそうです。ところで、今の日本のスポーツ界は一体どうなっているのでしょうか? 相撲界のゴタゴタが鳴りを潜めたかと思うと、今度は大学アメフト界での問題が浮上。確かに日大というマンモス大学の経営の在り方については何かと問題が大きく、今回のスポーツの指導についても大いに改善の余地はあろうかと思います。しかし、それにしてもニュースとしては大きく取り上げ過ぎではないかと、不自然さを感じざるを得ません。

 

さて、本日は三奉行のうちの最後の1役、「勘定奉行」について紹介したいと思います。勘定奉行、或いは「勘定頭」の名称はすでに鎌倉・室町時代にみられました。鎌倉時代は、公事奉公人のうちで諸国年貢の受け取り、勘定をする者を「勘定の奉公人」と称し、室町時代には大名の家に常設されるようになった職名で、領内の年貢収納などを所管していました。

 

これが江戸時代には、江戸幕府や諸藩の常設の職制の一つになります。江戸幕府における勘定奉行は、勘定方の最高責任者で幕府の財政事務統括、幕府直轄領の支配(訴訟検断や年貢徴収)、関八州の大名・旗本などの私領の訴訟受理などを主な職務としていました。今でいえば財務省といったところでしょうか。

 

勘定奉行の成立の経緯はあまり定かではありませんが、慶長14年(1609年)に家康の側近であった松平正綱が会計総括を命じられ、元和元年(1615年)に勘定方を兼務することになりました。寛永12年(1635年)、幕府は老中以下主要役職の管掌事項を定めた際に、関東幕僚と農民の訴訟は正綱、伊丹康勝、伊奈忠治、大河内久綱、曽根吉次の月番勤務としたことが、後の勘定奉行の職掌となったと考えられています。寛永19年(1642年)に「金銀納め方」を職務の一つとしていた「留守居(るすい)」のうち酒井忠吉、杉浦正友が国用査検、吉次、忠吉、正友、康勝が租税財殻出納を命じられ、忠治は勘定頭を免じられます。この時点で農政部門と財政経理部門が一緒になり勘定頭制が成立しました。

 

勘定奉行は老中の管轄に属し、郡代・代官・蔵奉行などを統括し、寺社奉行、江戸町奉行とともに三奉行として評定所一座を構成していました。江戸時代初期、元禄年間(1688年~1704年)までは勘定頭と称し、宝永年間(1704年~1711年)頃から勘定奉行と呼ばれるようになりました。元禄11年以降、松平重良の道中奉行兼帯移行、勘定奉行のうちの1人(後に公事方勘定奉行)が大目付とともに道中奉行を兼務しました。

 

勘定奉行の定員は4名で、3名や5名の時もあり、旗本から選任されました。役高は3,000石、役料700俵、手当金300両が供されるのを例としていました。享保6年(1721年)、勘定奉行が執務を行う「勘定所」が財政・民政を扱う「勝手方」と訴訟などを扱う「公事方」に分かれ、翌享保7年(1722年)に勘定奉行と勘定吟味役も上記二つの職に分かれました。この二つの職務は隔年交代、月番制で執務するようになり、勘定奉行と勘定所の職制がほぼ確立しました。

 

勘定奉行の下には「勘定組頭」、「評定所留役(ひょうじょうしょとめやく)」、「金奉行」、「蔵奉行」、「油漆奉行」、「切手手形改役」、「川船改役」、「金座」、「銀座」、「郡代」、「代官」などの役職が設けられていました。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年5月22日 07:05に書いたブログ記事です。

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