東藝術倶楽部瓦版 20180524:将軍の側近「側衆」

 

おはようございます。昨日は急遽朝から経済産業省に業務打合せで向かうことになり、瓦版が送付できずに失礼しました。本日も、これから同じく経済産業省に向かうことになります。ところで、今テレビで大きな話題として騒がれているのが日大アメフト部の悪質タックル問題ですが、他の重要な問題を差し置いて大きく取り上げられ過ぎているのが気になります。もちろん、指導者と呼ばれる人たちの責任感の欠如、能力の不足は今に始まった話ではなく、日本大学ばかりか日本全体に蔓延している悪弊であることは間違いありません。私自身、業務の上で責任のある立場に立っている以上、部下への適切な指導や配慮に心掛け、不測事態が生じた場合への対処や責任については自ら担う覚悟をもって対応している次第です。

 

さて、本日は「側衆(そばしゅう)」について紹介したいと思います。以前、御側御用人・御側御用取次のところでも少し紹介しましたが、今回は側衆そのものについてお話しします。

 

一般の江戸幕府の役人は江戸城本丸の「表(おもて、今でいうところの首相官邸に相当)」で勤務していたことは、すでに江戸城本丸のところで紹介済みのことですが、この側衆は「中奥(今でいうところの首相公邸に相当)が詰所となっていました。

 

側衆は「御側衆(おそばしゅう)」とも呼ばれ、いわゆる将軍の側近であり、3日に1度の宿直勤務があり、将軍の警護や就寝中の当番(将軍の就寝中に老中などから持ち込まれた案件の取り次ぎなど)が主な職務でした。将軍の信任を受けて御側御用人や御側御用取次に取り立てられる場合もありましたが、それ以外の一般の「平側衆」は家禄2,0003,000石の上級旗本が番方系の役職を進んで最後に務めるポストであったことは、前回紹介した通りです。

 

老中支配に属し、役高は5,000石、定員は5~6名、あるいは7~8名とされ、このうち3名が将軍と老中との取次の任に当たる御側御用取次(前回説明済み)となっていました。日常、将軍に近侍して、主な職務は将軍と表方役人との用件の取次のほか、奥向きの諸事、小姓(こしょう)、小納戸(こなんど)、医師などの進退を支配し、交替で宿直して、老中退出後は老中に代わって殿中のことを処理していました。大番頭(おおばんがしら)や留守居(るすい)と並び、旗本に補任される最高の役職の一つとされ、将軍の側近の立場から政務に関与し、権勢を誇った者もいました。

 

〔4代将軍・家綱〕

 

側衆の始まりは、承応2年(1653年)に4代将軍・家綱が寝所を大奥から中奥に移したのに伴い、久世広之、佐野親成、内藤忠由、土屋数直の4人が昼勤し、夜の交代宿直を命ぜられたことが始まりとされていますが、実態としては3代将軍・家光の時代に中根正盛が幕閣との取次役として「御側」を務めたのが最初〔寛永12年(1635年)〕だとも言われています。呼び名も当初は一定せず、「御座之間詰」、「御側御奉公」、「御近習之御奉公」、「御側」などと呼ばれていましたが、5代将軍・綱吉の時代〔寛文2年(1662年)初見〕になって御側衆が定着したようです。当初は大目付など正規の監察機構とは別に監察権限が与えられいたようですが、時代を経るに従って御側御用人などの役職が設けられると、次第に側衆の権限も限られたものになりました。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年5月24日 08:36に書いたブログ記事です。

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