東藝術倶楽部瓦版 20180530:幕府の監査役「大目付」、「目付」

 

おはようございます。今朝の東京都心は曇り、湿度は高くジメジメした感じを受けます。6月も近づき、梅雨の気配が感じられるところです。今日は我が職場の決算理事会と臨時評議会がホテルニューオータニで開催されます。昨年度1年間の実績・会計報告を審議、承認されることになっており、経済界のお歴々が集まる重要な会議です。日本を代表する大手企業のトップが集まるだけに、事前の理事会資料の作成には相当に気を配ってきました。本日は本番、私自身説明する訳ではありませんが、何かご下問があった際には、すぐに対応できるようスタンバイ席(俗称「離れ小島」)に座らせられます。

 

さて、本日は「大目付」と「目付」について紹介していきたいと思います。この二つの役職は、いわゆる幕府の監査役といえるものかもしれません。

 

先ず大目付ですが、江戸幕府での職制上は老中支配の旗本役、役高は3,000石〔享保8年(1723年)に確定〕です。石高3,000石から5,000石級の旗本から選ばれ、定員は4名~5名、主に朝廷、大名、寄合、高家の監視と一切の幕政の監察、江戸中期以降は幕府の命令を諸大名に伝える伝令や殿中での儀礼官の役割が重要任務となっていました。また、評定所への陪席、全国法令の布告、軍役も担当していました。

 

寛永9年(1632年)、秋山正重、水野守信、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)、井上政重の4名が「惣目付」に任じられたのが大目付の始まりとされています。大目付は、旗本の役職としては江戸城留守居や御三卿家老、大番頭に準ずる最高位と位置付けられ、大名を監視することから、在任中は大名と同等の万石級の禄高が与えられ、相応の官位が叙任されていました。

 

また、道中奉行、(切支丹)宗門改役、(江戸十里四方)鉄砲改役、分限帳改などの役職を兼帯し、特に大目付の筆頭格が道中奉行を兼帯していました。江戸時代中期になり、監察官としての色彩が弱まってくると名誉職・閑職とのイメージが強まります。

 

次に目付ですが、こちらは元々室町時代初期に、幕府侍所(さむらいどころ)の所司代の被官として置かれたのが始まりで、「横目」とも呼ばれ盗賊追捕になどに従っていましたが、戦国時代には戦時における観察や敵の内情を探るなどの任務にあたっていました。

 

江戸時代の目付は、元和3年(1617年)に設けられた若年寄支配の旗本役で、定員については、当初は十数名から二十数名に及びましたが、享保17年(1732年)以降10名に固定されました。役高は、寛文5年(1665年)に500俵が支給され、天和2年(1682年)に家禄に加えられ、享保8年(1723年)に1,000石となりました。江戸城の本丸のほか、西の丸にも置かれていましたが、西の丸の目付は、当初は臨時の職、享保9年(1724年)以降常置となりました。

 

目付の下に徒目付や小人目付などが置かれ、主な任務は旗本や御家人の監視、諸役人の勤怠等政務全般の観察、江戸城内外の査察、殿中礼法の指揮、評定所立ち会い、万石以下急養子の判元見届け、御成(おなり)行列の監督などでした。常時、本番・加番の2人の目付が城内に宿直し、非常時に備えていました。幕末には増員され、外国掛や海防掛などの職務も分掌することになります。

 

目付には有能な人物が任命されることが多く、後に遠国奉行や町奉行を経て勘定奉行に昇進する者もありました。また、町奉行に就任するには目付の経験が必須であったと言われています。老中が政策を実行する際には目付の同意が必要で、不同意の場合はその理由を将軍や老中に述べることができました。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年5月30日 08:53に書いたブログ記事です。

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