おはようございます。今朝の東京都心も日中は暑くなる気配です。とはいえ、西から梅雨前線が北上してきており、西日本では雨が降り始めるようです。明日から、関東も雨が降る天気が続きそうです。
さて、本日と次回の2回に分けて「番方(ばんかた)」と「大番頭(おおばんがしら)」について紹介していきたいと思います。江戸幕府において、行政を担当する文官にあたる役職を「役方(やくかた)」と称したのに対し、武官、すなわち常備軍として警備・防衛にあたる役割を担っていた役職を番方と呼んでいました。
「番」というのは、順番で服務する意味と警備に出動する意味が重なっているとされ、「当番」、「非番」といった言葉が今でも使われています。番方は「番衆(ばんしゅう)」とも呼ばれ、この呼称が使われ始めたのは鎌倉時代で、「鎌倉大番(かまくらおおばん)」、「早昼番」、「近習(きんじゅ)番」、「学問所番」などの種類があり、いずれも御家人の番役として賦課されたもので、固定された職務ではありませんでした。
これが江戸時代になると、開幕当初は番役であった番方も、次第に人数や職掌などが固定され役職化されていきます。寛永元年(1624年)に番方に対する規則である「御番衆条目」が制定、殿中での作法や心構えなどが決められました。番方の主な職務は常備軍として将軍の身辺の護衛や殿中・城門等要所の警備で、これを交替で勤めました。
江戸幕府の番方としては、大番、「書院番(しょいんばん)」、「小姓組番(こしょうぐみばん)」の番方三役〔書院番と小姓組藩を「両番」と呼ぶ〕、これに「新番(しんばん)」と「小十人組(こじゅうにんぐみ)」を加えた「五番方(ごばんかた)」のほか、「徒士(かち)組」、「百人組」、「先手(さきて)組」などがありました。
五番方の概要は以下の通りです。
〔大番〕
天正14年(1586年)創設
老中支配、幕府常備の主力軍、旗本編制部隊(番士以上)
平時は江戸城二の丸・西の丸の警備、大坂城・二条城の管理・警備
戦時は旗本部隊の一番先手の騎馬隊
本丸12組(当初は6組)、うち2組は京都二条城、2組は大坂城
1組の構成:番頭1名、組頭4名、番士50名、与力10騎、同心20名
〔書院番〕
慶長10年(1605年)創設
若年寄支配、幕府の親衛隊、旗本編制部隊(番士以上)
江戸城本丸の警備、殿中・諸門の警備、駿府在番
将軍の護衛任務が主務
本丸6組(当初4組)、西の丸4組
1組の構成:番頭1名、組頭1名、番士50名、与力10騎、同心20名
〔小姓組(花畑組)〕
慶長11年(1606年)創設
若年寄支配、将軍の親衛隊、旗本編制部隊
戦時は直掩備(ちょくえんぞなえ)・騎馬隊
平時は将軍警護
本丸8(6)組、西の丸4組
1組の構成:番頭1名、組頭1名、番士50名
〔新番〔土圭間(とけいのま)番、近習(きんじゅ)番、新御(しんご)番〕
寛永20年(1643年)創設
若年寄支配、旗本編制部隊、馬上資格有り(騎兵)
将軍の身辺警護を職掌、将軍出行の際の先駆け
武器の検分
新番所10組、1組20名
〔小十人組〕
江戸時代初期創設
若年寄支配、旗本編制部隊、馬上資格無し(五番方唯一の歩兵)
平時は江戸城中警備、将軍・嫡子行軍・行列の前衛部隊、先遣警備
戦時は将軍馬廻りの警護
本丸10組、1組:頭1名、組頭2名、番衆20名
このほか、徒士は歩兵部隊、百人組は与力・同心から成る鉄砲隊、先手組は与力・同心から成る弓・鉄砲の混合隊で、組頭以外は一般に御目見え以下の御家人で構成されていました。そういえば、前回の江戸城の勉強会の時に、大手門から入って「同心番所」と「百人番所」を見たことを覚えていますか? 江戸城警護の御目見え以下の武士は、こうした番所に詰めて任務にあたっていたのです。
ところで、東京の千代田区には「番町」に数字が付く地名があります。これは番方の屋敷が多くあったことに由来されていると言われています。文禄元年(1592年)に江戸城改築に伴い、当時あった6組の屋敷地を江戸城北西側に設けたことから、「一番町」から「六番町」まで名称が付けられたのではなかいかと考えられています。
高見澤