東藝術倶楽部瓦版 20180611:小録なれど権限は強かった-「郡代」と「代官」

 

おはようございます。先週金曜日は、急遽朝一番で中国大使館商務処に赴く用事が出来てしまい、瓦版も休刊とさせていただきました。ご理解の程、よろしくお願い致します。ところで今朝東京ですが、台風の接近とそれに伴う秋雨前線への刺激によって、比較的強い雨が降っています。足元が濡れて不快に感じる部分もありますが、これもまた地球も我々も生きている証拠。いろいろな経験を積むことで、人も自然も成長していくことができるのです。

 

さて、本日は「郡代(ぐんだい)」と「代官(だいかん)」について紹介していきたいと思います。郡代や代官は、いずれも中世から主君に代わって地方の土地を治めてきた地方官のことを指します。室町時代には、守護の代理人である「守護代」、或いは守護代の下の郡単位に置かれた代理人を郡代(「郡使」、「郡司」とも)と呼び、幕府直轄領の土地支配の代理人を代官と称すこともあったようです。

 

江戸時代においても、郡代と代官の意味合いは大きく変わらず、幕府や諸藩において主君に代わって地方を治める地方官を指していました。江戸幕府においては、郡代、代官ともに勘定奉行の支配下に置かれ、地方の民政一般を司り、その多くは旗本から任じられていました。

 

江戸幕府において、比較的広域の幕府直轄領を支配する地方官のことを郡代と呼びました。江戸時代初期には上方、尼崎、三河、丹波、河内などほぼ1国単位に郡代が置かれていましたが、寛永19年(1642年)に勘定頭制が定められると、郡代と代官は勘定奉行の支配下に置かれます。江戸時代中期以降、郡代は「関東郡代」、「美濃郡代」、「飛騨郡代」、「西国筋(さいごくすじ)郡代」の「四郡代」となりました。

 

関東郡代は関八州、美濃郡代は美濃国及び伊勢国桑名郡の一部、飛騨郡代は飛騨国、西国筋郡代は九州地方の幕府直轄領をそれぞれ治めていました。これら4地域は管轄面積が広大で枢要の地、大藩に近い、或いは支配地が10万石以上でした。旗本役で布衣の家格、役高は400俵で、属吏に手付(てつき、御家人)、手代(てだい、武家奉公人)、書役(かきやく)などがおり、その職掌は勧農(農業振興・奨励)、人別改、貢租収納などの「地方(じかた)」と警察、裁判、行刑などの「公事(くじ)方」に分かれていました。

一方、江戸幕府における代官は、具体的な職務はほぼ郡代と一緒ですが、管轄地域の石高が5~10万石と郡代に比べ小規模だったことが大きな違いです。代官も原則として旗本から任命されますが、家格は平士(ひらざむらい)で郡代の布衣よりも低く、役高も150俵程度でした。

 

江戸初期にはこの代官職も世襲であることが多かったようで、在地の小豪族・地侍からも採用され、幕臣に取り込まれていきました。代官の身分は旗本としては最下層ではあったものの、支配地における権限は大きかったことから、時代劇などでは「悪代官」のイメージで一般には広まっています。しかし、実際には代官の業務は非常に多忙で悪事を企む暇もなければ、評判が悪くなるとすぐに罷免される体制が組まれていたようです。

 

寛文年間(1661年~1673年)から元禄年間(1688年~1704年)にかけて幕藩体制が確立される過程で、世襲されていた代官の多くは不正を理由に失脚、享保10年(1725年)の代官所経費支給仕事法の改正により、各代官所で民政を担当する貢租徴税官としての役割へと変わっていきました。

 

江戸時代の代官の数は、多い時で70名に及びましたが、通常は4050名であったようです。江戸市中には代官所がおかれ、江戸近辺の代官はそこで執務〔江戸定府(じょうふ)〕していましたが、それ以外は任地に陣屋(代官所)が設けられており、そこで業務を行っていました。配下には、郡代と同じように十数名の手付、手代、書役などがおり、それぞれ江戸と任地に勤務させ、事務処理にあたらせていました。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年6月11日 11:11に書いたブログ記事です。

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