おはようございます。今日の東京の天気予報は雨、朝家を出た時にはまだ降っていませんでしたが、職場のある九段下駅に着いた時には小雨がパラパラと降ってきていました。本格的な梅雨の時期の空模様です。この時期が過ぎれば、いよいよ夏の到来。四季の季節感をそれぞれ楽しめる日本ならではの醍醐味かもしれません。
さて、本日は遠国奉行のうちでも主に大名が任じられた「伏見奉行」について紹介したいと思います。遠国奉行全体が老中支配の旗本役であることから、伏見奉行も当然のことながら老中支配です。大名が任じられることから、他の奉行に比べて特に重要性が高かったことが分かります。
伏見奉行の職務は、山城(やましろ)国伏見宿及び伏見廻り8カ村の民政、宇治・伏見・木津の諸川の船舶の取り締まりのほか、京都町奉行とともに近江・丹波両国の行政や訴訟も司っていました。また、京都御所の警備、参勤交代する西国大名・家臣の監視なども行っていました。
伏見は、古くは伏見稲荷の総本社・伏見稲荷大社の門前町、更に豊臣秀吉が伏見城を建ててからは伏見城と大名屋敷群からなる城下町として栄えます。慶長3年(1958年)に秀吉が伏見城で没すると、翌慶長4年(1599年)に秀吉の嫡子・秀頼が伏見城から大坂城に移り、家康が留守居役として伏見城に入りました。その後、家康も大坂城に移り、大名屋敷のほとんどが大坂に移ってしまいました。
慶長5年(1600年)に伏見城の戦いで城は炎上、翌慶長7年(1602年)頃に城が再建され、慶長8年(1603年)、家康はこの伏見城で将軍宣下を受けて以降、3代将軍・家光まで伏見城で将軍宣下式が行われましたが、元和5年(1619年)に伏見城は廃城となります。
とはいえ、伏見はさすがに秀吉が隠居後の場所と選んだ土地でもあります。江戸幕府にとっても幕政上枢要な地でした。伏見城廃城後、伏見は城下町から商業都市へと変貌し、京都を避ける大名行列が通る京街道の宿場でもあったことから、その重要性は幕府直轄地の中でも抜きん出ていました。
慶長5年、伏見城代を務めていた松平忠明(奥平信昌の四男)が伏見の町政を預かる伏見奉行を兼任したのがその始まりとする説もありますが、伏見奉行が明確に幕府の職制として整えられたのは寛文6年(1666年)に水野忠貞が同職に就いてからです。それ以前は、慶長7年(1602年)に伏見城在番制が定められ、京都所司代の指揮下に伏見城代が置かれていました。
伏見城廃城後の元和5年から幕末・慶応5年(1869年)まで39名が伏見奉行職に就きましたが、定員は1~3名、一時期京都町奉行が分任していた時期もありました。
高見澤