東藝術倶楽部瓦版 20180618:遠国奉行首座「長崎奉行」

 

おはようございます。今朝の東京都心は曇り、出がけにパラパラと小雨が降りましたが、職場に着く頃には止んでいました。梅雨らしい季節といえますね。それにしても、最近のJR各社でのトラブル続きは一体どういうことでしょう。ここまで異常な状態が続くということは、旧国鉄以来の腐った体質がまだJRとなった今も残っているのかもしれません。いわば、これは日本の縮図でもあるのです。

 

さて、本日は遠国奉行の首座として位置付けられていた「長崎奉行」について紹介したいと思います。

 

長崎は豊臣秀吉が天正16年(1588年)に直轄地として支配した場所で、先ずは肥前佐賀城主・鍋島直茂を長崎代官とし、文禄元年(1592年)に肥前唐津城主・寺沢広高を長崎奉行に任じたのが、長崎奉行の始まりとされています。関ヶ原の戦い以降、徳川家康は豊臣家の蔵入地(直轄地)を収公、長崎は江戸幕府の直轄地となり、豊臣時代の長崎奉行の職制を引き継ぎ、以降幕末まで長崎奉行の支配下に置かれます。

 

長崎奉行は老中支配の旗本役で、開幕当初は小録の旗本が務めていましたが、後に1,0002,000石の上級旗本が任じられる重職として位置付けられるようになりました。定員は1~4名と時期によって異なり、当初は南蛮船が入港する繁忙期(6月~10月)に長崎に赴く体制がとられていましたが、寛永10年(1633年)に2名体制となって以降、原則として1名は長崎に在勤、もう1名は江戸役宅に勤務し、毎年9月に長崎で交代〔延享元年(1744年)に10月交代に変更〕していました。

 

長崎奉行は主に天領長崎の行政と司法、長崎会所(長崎税関)の監督、清国(中国)やオランダとの通商、諸国との外交接遇、唐人敷・出島の管理、幕府への収益上納、勝手勘定奉行との連絡、輸出品等を所管、更には西国キリシタンの禁圧、長崎港警備、九州大名等の動静探索を統括していました。また、長崎港で事件が起これば、佐賀藩や唐津藩をはじめとする近隣大名を指揮し、事に当る権限も有していました。

 

長崎奉行のうち江戸で勤務する「江戸在府奉行」は、長崎在勤の「長崎在勤奉行」と江戸幕府との間に立ち、両社の連絡役を務めていました。長崎奉行の職責権限を越える問題や先例のない事項は、江戸在府長崎奉行を通じて江戸幕府老中の判断をあおいでいました。一般に遠島以上の処罰は、遠国奉行の独断裁許は許されず、その多くは首座である長崎奉行を通して江戸表に伺いを立てていたようです。

 

長崎奉行は、役高1,000石、在任中の役料4,400俵でしたが、これらはあくまでも公的収入で、それよりも余得収入の方が大きかったと言われています。例えば、輸入品を「御調物(おしらべもの)」の名目で非関税で購入できる特権が認められ、それを京や大坂で転売して利益を得たり、「八朔銀」と呼ばれる貿易商人等からの献金や清国・オランダからの付け届けなどによる収入が得られたりしていたのです。ですから、長崎奉行は、旗本にとって垂涎のポストだったようです。とはいえ、権限や役得が大きい分、その業務範囲は広く、責任が相応に重かったことは確かです。

 

長崎奉行の属僚として、支配組頭、支配下役、支配調役、支配定役下役、与力10騎、同心30人、清国通詞、オランダ通詞のほか、御用物役、町年寄等の地役人(じやくにん)などがおり、長崎奉行所には合計1,000名が常時勤めていたようです。役屋敷は岩原郷立山の「立山奉行所」と外浦(ほかうら)町の「西奉行所」の2カ所がありました。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年6月18日 10:01に書いたブログ記事です。

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