東藝術倶楽部瓦版 20180620:老中支配、京都所司代の指揮下にあった「京都町奉行」

 

おはようございます。今朝の東京都心は雨、凄く蒸し暑く感じる梅雨を象徴するかのような1日になりそうです。昨日は、ホテルニューオータニで開催された北朝鮮問題でテレビでもお馴染みの南山大学・平岩俊司教授の朝食懇談会に急遽出席することになり、瓦版を発信することができませんでした。北朝鮮や米国の思惑など、オフレコの話が盛りだくさんで、中々報道では明らかにされない水面下での取引が行われているようです。

 

さて、本日も遠国奉行の一つとして、「京都町奉行」について紹介していきましょう。京都町奉行は、江戸幕府が京都に設置した京都及びその周辺の国々の民政等を統括する奉行で、老中支配の旗本役です。老中支配とはいえ、実際には任地の関係で、通常は京都所司代の指揮下で職務を遂行していました。

 

京都町奉行の職務は非常に広範で、具体的には京都市中の町方支配(行政・裁判等)に加え、五畿内(摂津、山城、大和、河内、和泉)と近江、丹波、播磨の8カ国の公事訴訟裁許や寺社支配と年貢徴収(山城以外)、上方代官衆の統括などです。この8カ国に関し、享保7年(1722年)に摂津、河内、和泉、播磨4カ国の租税徴収は大坂町奉行に移管され、この職務は幕末まで続きます。

 

江戸幕府開幕以降、京都とその周辺の行政は京都所司代と京都郡代が管轄していました。時代を経るに従い、その職務が過重となっていき、京都所司代の一部権限(京都市中支配)を委譲され、京都郡代から分離する形で寛文8年12月(1669年1月)に京都町奉行が成立することになりました。京都町奉行所は東西2つの奉行所に分かれており、二条城の南にあるのが「東御役所」、同じく二条城の西にあるのが「西御役所」と呼ばれていました。

 

初代東町奉行は宮崎重成、初代西町奉行は雨宮正種で、定員は元禄期(1688年~1704年)に3名となったほかは、通常は2名、江戸町奉行と同様に月番制で1カ月ごとに任務にあたっていました。役高はそれぞれ1,500石、役料として現米600石が支給されました。配下には与力20騎、同心50人が付いていました。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年6月20日 12:03に書いたブログ記事です。

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