東藝術倶楽部瓦版 20180621:八百八橋の支配役-「大坂町奉行」

 

おはようございます。梅雨らしい天気が続いています。中々傘が手放せない毎日です。サッカーのワールドカップも日本がコロンビアに勝利したことで、盛り上がっているようですが、それはそれとして、日本国民には日本が抱えている構造的な問題に少しは目を向けてもらいたいと思うこの頃です。

 

さて、本日は「大坂町奉行」について紹介したいと思います。ところで、皆さんすでにお気付きかもしれませんが、本瓦版では「大阪」ではなく「大坂」と表記しています。大阪は明治以降使われるようになったもので、江戸時代以前は大坂が使われていました。このお話しはまた別の機会に紹介します。

 

江戸が「八百八町」と呼ばれるのに対し、大坂は「浪華の八百八橋(なにわのはっぴゃくやばし)」と呼ばれるほど、各地に多くの橋が架けられていました。とはいえ、八百八町と同じように、橋の数が808カ所あったわけではなく、橋の数からいえば江戸の方が圧倒的に多かったようです。このお話しもまた後日。ちなみに京都は「八百八寺(はっぴゃくやでら)」です。

 

話を大坂町奉行に戻しましょう。遠国奉行の中で、「町奉行」と「町」の字が付されているのは、京都町奉行と大坂町奉行、そして駿府町奉行の3奉行です。他の遠国奉行は伏見奉行や長崎奉行のように「地名+奉行」というように、「町」は付されていません。ですから、京都、大坂、駿府に在勤する遠国奉行は、他の奉行に比べて特異だったのかもしれません。

 

大坂町奉行が設置されたのは元和5年(1619年)と比較的早い時期で、旗本の久貝正俊と嶋田直時の2名がそれぞれ役高3,000石をもって「大坂郡代」に任じられたのが始まりとされています。大坂町奉行所は東西2カ所、それぞれ「東の御番所」、「西の御番所」と呼ばれ、正俊が東町奉行、直時が西町奉行に任じられました。時に、同じ旗本であった水野守信を加えた3人補任説もありますが、今では否定されているようです。

 

大坂町奉行の業務は江戸町奉行と同様に、東西1カ月ごとの月番制です。当初、東西奉行所ともに大坂城北西の虎口・京橋口の門外に置かれていましたが、享保9年の大火で両奉行所が焼失、東町奉行所は京橋口に再建されましたが、西町奉行所は本町橋東詰の内本町詰町に移転されています。

 

大坂町奉行は老中支配の旗本役で、原則として知行高1,000石以上3,000石以下の旗本が任じらています。定員は東西それぞれ1名の計2名、元禄9年(1696年)~元禄15年(1702年)に堺奉行を兼務して3名になり和泉国を支配してこともありましたが、その時期は短期間で終わってしまいました。役高は1,500石、役料は現米600石、特に任期の定めはありません。配下には東西それぞれ与力30騎、同心50人がいました。

 

大坂町奉行の主な職務は「大坂三郷(北組、南組、天満組)」と呼ばれる大坂城下及び摂津国と河内国の支配で、当該地域の一般民政・裁判・警察・消防のほか、遠国廻米(おんごくかいまい、遠国からの輸送米)や糸割符(いとわっぷ、生糸の輸入制度)、株仲間(商工業者の同業組合)、河川、寺社、出版など大坂の経済関連業務も管掌していました。

 

享保7年(1722年)からは、摂津、河内、和泉、播磨の幕府領の年貢徴収や公事取扱い(民事裁判)を所管するようになり、その職務権限は拡大されていきました。

 

高見澤

 

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年6月21日 09:39に書いたブログ記事です。

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