東藝術倶楽部瓦版 20180625:寺社を含む南都を支配-「奈良奉行」

 

おはようございます。今朝の東京都心は晴れ、梅雨前線も大分北の方に移動したようで、今週は猛暑日が続くようです。原稿執筆や大学での講義資料作成など、本業以外の仕事もあり、週末もどこかに出掛けるわけではありませんが、それでも暑さ対策は必要です。

 

さて、本日は「奈良奉行」について紹介していきましょう。奈良については、特に説明する必要もないかと思うので、詳細な説明は省きます。奈良奉行は、「奈良町御奉行」、「南都(町)奉行」、「南京奉行」などとも呼ばれ、当時江戸幕府の直轄領となっていた奈良の行政や寺社の支配を行っていた遠国奉行の一つです。平安時代以降、北にある京の都に対して、古都・奈良は「南都」とも呼ばれていました。

 

他の遠国奉行と同様に奈良奉行も老中支配の旗本役でしたが、奈良に駐在して職務を行うことから、実質的には京都所司代の指揮下にありました。具体的な職務は、奈良町及び大和一国の民政のほか、同地域の寺社を管掌、特に中世以降、実質的に大和支配の権を有していた春日大社及び興福寺を支配することでした。

 

関ヶ原の戦い以後、武田家遺臣で家康に仕えていた大久保長安の下代衆(長子・藤十郎とも)が奈良支配にあたっていましたが、長安の失脚に伴い、慶長18年(1613年)、興福寺衆徒であった中坊秀政(なかのぼうひでまさ)が起用されてその任に就きました。この秀政以降、奈良奉行の職名が定着していきます。中坊氏時代の奈良奉行は、春日大社及び興福寺の対策が主な任務であり、民政上の権限は十分に確立しておらず、重要事項については上級者の指示・判断を仰がなければならず、また大和国内の幕僚代官を兼任するなど、制度的には過渡期であったといえます。

 

奈良奉行の職制が明確化されたのは寛文4年(1664年)の時で、民政一般を奈良奉行が務め、大和の天領支配は奈良代官が行うといったように、職掌が明確に分離されました。奈良奉行の権限はそれほど大きくはなく、京都所司代や京都町奉行と相談しながら政務を行っていたようです。

 

奈良奉行の定員は1名〔元禄9年(1696年)~元禄15年(1702年)は2名体制〕、役高1,000石、役料1,500俵でした。奈良奉行所の組織が整備されたのは中坊時祐(ときすけ)在任中〔寛永15年(1638年)~寛文2年(1663年)〕のときで、与力6騎(後に8騎)、同心30人、牢番1人が配されていました。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年6月25日 10:03に書いたブログ記事です。

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