東藝術倶楽部瓦版 20180626:佐渡の民政と金銀山の支配-「佐渡奉行」

 

おはようございます。昨日は本当に暑かったですね。今日もまた全国的に暑くなるようなので、熱中症には十分ご注意ください。こまめな水分補給が必要です。我々が学生時代には、運動部に所属していて練習中に水を飲むとバテるからと、なるべく水分補給しないよう指導されていたものですが、時代が変わると考え方も真逆になる不思議さを感じています。

 

さて、本日は「佐渡奉行」について紹介したいと思います。佐渡奉行も遠国奉行の一つで、他の遠国奉行と同様に老中支配の旗本役です。関が原の戦いを経て、佐渡が上杉氏から徳川家康の支配下となったのは慶長5年(1600年)のことで、翌慶長6年(1601年)に佐渡代官が置かれました。その時、代官に任じられたのが敦賀の豪商・田中清六で、清六は上杉景勝の遺臣・河村彦左衛門とともに佐渡を治めることになりました。またその翌年の慶長7年(1602年)に、吉田佐太郎と中川主水がこれに加わりますが、百姓との間でトラブルが生じ、清六以下4名は代官の職を解かれ、慶長8年(1603年)に大久保長安(武田家遺臣)が代官に任じられました。

 

元和年間(1615年~1624年)に佐渡支配の機構が次第に充実し、名実ともに佐渡奉行となったのは元和4年(1618年)に鎮目惟明(しずめこれあき)、竹村嘉理(たけむらよしまさ)が就任してからのことです。定員は1~2名で、寛永12年(1635年)から明暦2年(1656年)の一時期は勘定奉行が兼任しており、その際、佐渡には留守居が置かれていました。正徳2年(1712年)以降、基本的に定員は2名となりました。

 

佐渡奉行の役高は1,000石、職禄1,500俵、100人扶持で、当初は万石以上の者が任じられることもありましたが、基本的には小禄の旗本が就任し、勘定奉行吟味役、目付、納戸頭などから転じることが多かったようです。配下には与力30騎、同心70人のほか、地役人として組頭2人、広間役7~8人、吟味役、御金蔵役、印銀所定役、目付役、並役、使役、牢守、主水など300人がいました。

 

佐渡奉行の主な職務は佐渡の民政支配、金銀山の経営と金銀の貢賦のほか、北方の監視、佐渡の海上警衛、年貢の取り立てなどです。また幕末には、外国船の監視も重要な任務となっていました。民政支配の奉行を「町奉行」、金銀山管理の奉行を「山奉行」と呼びました。

 

当初、鳴子に代官の陣屋が置かれていましたが、大久保長安の時に相川に移転(相川陣屋)し、そこが後に佐渡奉行所になりました。島内に最初は5カ所の代官所が置かれていましたが、後に4カ所になりました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年6月26日 07:04に書いたブログ記事です。

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