東藝術倶楽部瓦版 20180629:日光を見ずして結構ということ莫れ-「日光奉行」

 

おはようございます。昨夜はサッカーワールドカップロシア大会、日本対ポーランド戦で盛り上がっていたようで、ポーランドに負けはしたものの、予選リーグを突破して16強入りしました。普段からめったにスポーツ観戦などしない我が家ですが、昨夜は夜遅くまでテレビを見ていたようです。私は仕事の疲れで寝てしましましたが...。

 

さて、本日は「日光奉行」について紹介していきたいと思います。日光奉行も他の遠国奉行と同様に老中支配の旗本役で、主な職務は日光東照宮の守衛・修繕・祭祀事務及び日光神領支配・収納で、更には上野(こうずけ)・下野(しもつけ)両国の司法も扱っていました。

 

下野国日光は、古くから日光山の門前町、或いは修験者の道場として山岳信仰の聖地とされてきました。江戸時代に入り、元和2年(1616年)に徳川家康が死去すると、その遺骸は駿河国久能山に葬られますが、翌元和3年(1617年)に日光に改葬されます。この時に建てられたのが日光東照宮です。「日光を見ずして結構ということ莫れ」。これ以降、日光は東照宮の門前町として栄えていくことになります。

 

慶安元年(1648年)、幕府は目付1人を日光に在勤させて、日光東照宮の警備と山中の監察させます。3代将軍・家光の死後、承応元年(1652年)に梶定良(かじさだよし)が日光山守護に任じられ、元禄11年(1698)年に死去するまで定良が日光御宮守(にっこうおみやもり)を務めました。定良死去後もしばらくは目付が派遣されていましたが、元禄13年(1700年)にこれを廃止、ここに日光奉行が創設されました。

 

日光奉行の定員は2名、創設当初は半年交代勤務でしたが、寛政2年(1790年)より在勤1年交代となり、文久2年(1862年)以降は原則として定員1名となりました。役高は2,000石、役料は500俵で、属僚として組頭兼目代、吟味役、組同心、支配同心がおり、組頭支配に神馬(しんめ)別当、掃除頭、山内七カ所番所同心、大沢御殿番などが配されていました。

 

寛政3年(1791年)に日光目代であった山口新左衛門信輔が不正のために罷免されると、目代が務めていた神領支配権は日光奉行に包摂され、日光奉行が直接支配することになりました。

 

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年6月29日 07:32に書いたブログ記事です。

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