東藝術倶楽部瓦版 20180704:ロシア南下対応から箱館開港対応へ-「蝦夷奉行」、「箱館奉行」、「松前奉行」

 

おはようございます。今朝は特に蒸し暑さを感じます。そういえば、日テレの看板番組「笑点」でお馴染みの桂歌丸師匠が亡くなりました。81歳ということで、私の父が昨年84歳で亡くなったことを考えれば、少し早かったのではないかと思う次第です。戦前生まれの人たちは、まだ化学物質や放射性物質による汚染が少なかったこともあり、衛生状態が良くなった現代ではそれなりに長生きできているのではないかと思います。医療が発達したとしても、どこまで人の寿命を延ばすことができるのか? もう一度、生命とは何かを考える時期に来ているのではないでしょうか。

 

さて、本日は「蝦夷奉行」、「箱館奉行(はこだてぶぎょう)」、「松前奉行」について紹介したいと思います。この3つの遠国奉行は同時に説明することで、その時代の変遷とそれぞれの奉行の役割を知ることができます。

 

豊臣秀吉、徳川家康から蝦夷地(北海道)の支配権を認められていたのは清和源氏の流れを汲む松前氏(蠣崎氏)ですが、寛政期(1789年~1801年)から文化期(1804年~1818年)に南下政策を進めるロシアに対して幕府は警戒を強め、寛政11年(1799年)に「蝦夷地御用掛(えぞちごようがかり)」を置いて東蝦夷地を仮上知(かりあげち)します。享和2年(1802年)2月に仮上知から永久上知として蝦夷地御用掛を蝦夷奉行(または「蝦夷地奉行」とも)とし、同年5月に箱館奉行と改称しました。

 

この箱館奉行も他の遠国奉行と同じように老中支配の旗本役、定員は2名で、うち1名が1年交代で箱館に駐在していました。役料は1,500俵、席次は長崎奉行の次とされていました。初代蝦夷奉行(箱館奉行)は戸川安論(とがわやすのぶ、やすとも)と羽太正養(はぶとまさやす)です。

 

蝦夷地の本格的な経営に着手した幕府は、文化4年(1807年)に松前氏を陸奥国梁川に移封し、箱館に置かれていた奉行所を松前に移して名称も「松前奉行」と改めました。松前奉行の主な職務は蝦夷地の経営・開発及び警固、和人地の民政など蝦夷地の行政、北方の国境警備、更にはアイヌの懐柔や扶育政策などでした。その後、文政4年(1821年)、松前藩の復封に伴って蝦夷地支配を松前藩に返還し、松前奉行は廃止されます。

 

幕末に至り、箱館開港に対処するため、安政元年(1854年)に箱館奉行が再び設置されることになります。翌安政2年(1855年)、松前をはじめとする蝦夷地の大部分が箱館奉行の管轄に入りました。この時の箱館奉行の定員は2~4名で、うち1名が江戸詰めでした。役高は2,000石、役料は1,500俵で、在勤中の手当金700両が支給されたようです。箱館奉行の主要な任務は蝦夷地の警護と開拓のほか、開港場箱館にかかわる通商・外交なども管掌することになり、慶応4年(1868年)の明治維新まで存続しました。

 

明治元年(1868年)の戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争の舞台となった「五稜郭」は、当初箱館山麓の港に近い宇須岸(うすけし)に置かれていた奉行所を内陸地に移転した際に造られた外堀で、元治元年(1864年)に完成しています。

 

ところでこの五稜郭について、有名なのは何といってもこの函館の五稜郭ですが、日本にある二つある五稜郭のうち、もう一つの五稜郭がどこにあるか知っていますか? 実は我が故郷の長野県佐久市(旧臼田町)にある龍岡城跡(現在の田口小学校)が同時代に建てられた五稜郭だったのです。現在でもその一部が五稜郭跡として残っていますので、興味のある方は行かれてみては如何でしょうか。

 

高見

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年7月 4日 09:13に書いたブログ記事です。

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