東藝術倶楽部瓦版 20180705:港湾及び海上警固のために設置-「羽田奉行」、「新潟奉行」、「兵庫奉行」

 

おはようございます。東京都心は朝から雨、全国的にも雨で、ところによっては暴風雨に注意が必要とのことです。週末にかけて雨が続き、しばらくは蒸し暑さに悩まされそうです。

 

さて、本日もまた遠国奉行で、特に港湾及び海上警固のために設置された「羽田奉行」、「新潟奉行」、「兵庫奉行」について紹介したいと思います。これらはいずれも老中支配の旗本役です。

 

先ず羽田奉行です。羽田といえば、今は「羽田空港」という空の玄関口として知られていますが、江戸時代は海防強化政策の一環として設置された「羽田御備場(はねだおそなえば)」がありました。場所は武蔵国荏原郡羽田村(現在の東京都大田区羽田)、設置時期は定かではありませんが、天保の改革(1830年~1843年)頃ではなかったかと思われます。天保14年(1843年)12月、西の丸小姓組を務めていた田中勝行が初代羽田奉行として任じられました。

 

羽田奉行は場所高1,000石、役料500俵のほか、引越拝領金200両、役所御備金300両で、下田奉行の次席、布衣、定員1名となっていました。羽田奉行の主な任務は、江戸付近の沿岸警備と外国船対策で、奉行が執務を行う仮番所、台場、火薬などを保管する仮焔硝蔵(かりえんしょうぐら)から成っていました。奉行の配下には、支配組頭1名、与力3名、与力勤方6名、与力見習・与力見習勤方4名、同心組頭10名、同心48名、足軽15名、主水頭取20名、足留主水40名がいました。

 

天保14年に設置された羽田奉行ですが、天保の改革を進めていた老中・水野忠邦が失脚すると、翌天保15年(1844年)に羽田御備場が廃止され、羽田奉行であった田中勝行は浦賀奉行へ異動となりました。

 

次は新潟奉行です。新潟奉行が越後国新潟町に設置されたのは天保14年(1843年)6月のことです。それまで新潟町は越後長岡藩領として譜代大名・牧野家の支配下にありました。牧野家10代藩主・忠雅の頃、新潟町で天保6年(1835年)と天保11年(1840年)に唐物(からもの)抜荷事件が発覚し、これを機に天保の改革の一環として天保14年に新潟町は上知されて江戸幕府の直轄領となりました。

 

初代新潟奉行に任じされたのは抜荷事件を密かに調査していた勘定吟味役の川村修就(かわかみながたか)で、役高1,000石、役料1,000俵で、佐渡奉行の次席とされていました。定員は1名で新潟町に常駐していました。主な任務は新潟町の民政と新潟港への出入船舶の監視、密貿易の取り締まり、海岸警備、海防強化でした。開国によって新潟が開港地となってからは、その重要性が増し、幕末の慶応3年(1867年)に奉行はその石高にかかわらず役金2,000両となりました。

 

そして兵庫奉行です。兵庫奉行は、元治元年(1684年)の兵庫開港に際して摂津国兵庫に設置された遠国奉行です。兵庫港は今の神戸港の一部で、昔から大輪田泊(おおわだのとまり)や兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれて、京都や奈良と日本の東西航路を結ぶ拠点として栄えてきました。

 

初代兵庫奉行に任じられたのは小笠原広業(おがさわらひろなり)で、1,000石高、役料現米600石でした。主な任務は兵庫市中の取り締まりと、開国に際しての外国貿易事務でした。しかし、慶応元年(1865年)に兵庫港の開港が中止となり翌慶応2年(1866年)に兵庫奉行は廃止されます。ところが、その翌年の慶応3年(1867年)に兵庫港が実際に開港されることになり、再び兵庫奉行が設置されました。その際のの役高は2,000石、役料1,500石とされているようです。配下には支配組頭がいました。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年7月 5日 14:10に書いたブログ記事です。

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