東藝術倶楽部瓦版 20180706:横浜港開港とともに設置-「神奈川奉行」

 

おはようございます。今日の東京都心は朝から雨です。蒸し暑い上に、足元が濡れて決して快適とは言えない状態で出勤してきました。冷房の効いた部屋から外に出るのが、より面倒になりそうです。

 

さて、本日は遠国奉行の中で最も後の時代に設置された「神奈川奉行」について紹介したいと思います。この神奈川奉行も他の遠国奉行と同じで、老中支配の旗本役です。

 

幕末期の安政5年6月(1858年7月)、米国との間で日米修好通商条約が締結され、翌安政6年6月(1859年7月)をもって「神奈川」の開港が約束されます。同年中に英国、フランス、ロシア、オランダとも同じ内容の条約、いわゆる「安政五カ国条約」が結ばれることになりました。これによって実際には「横浜港」が開港されるのですが、このときに設置されたのが神奈川奉行です。安政6年から廃止される明治元年(1868年)までのわずか約9年間の短命でしたが、神奈川奉行の役割は極めて重要でした。

 

安政五カ国条約で神奈川の開港が定められたのですが、江戸幕府は東海道の宿場町として栄えていた神奈川湊を外国人居留地から遠ざけるために、対岸にある横浜村を「神奈川在横浜」と称して開港地と定めます。これが現在の横浜の発展の発端となった経緯です。今では横浜(中区・西区)が大きく発展していますが、江戸時代は神奈川宿(横浜市神奈川区)の方が栄えていたのです。

 

神奈川奉行に最初に任命されたのは、開港場建設の事務に当っていた外国奉行(幕末に新設された役職)の酒井忠行(さかいただゆき)、水野忠徳(みずのただのり)、村垣範正(むらがきのりまさ)、堀利熙(ほりとしひろ)、加藤則著(かとうのりあき)の5名で、当初は外国奉行との兼帯、5名のうち1~2名が輪番で出張勤務していました。その後、万延元年(1860年)に神奈川奉行は専任となり、松平康直(まつだいらやすなお)と都築峰暉(つづきみねあき)が任命され、定員は2~3名となります。神奈川奉行の役高は2,000石、役料は1,000俵でしたが、外国奉行との兼帯では役料の代わりに手当として300両が支給されていたようです。席次はその重要性から長崎奉行の上座とされ、属僚には支配組頭、調役、定役、同心、上番などが配されていました。

 

設置当初の神奈川奉行所は、青木町(横浜市神奈川区)に「会所」、戸部村宮ケ崎(横浜市西区)に「奉行役所」、横浜村(横浜市中区)に「運上所」が置かれ事務処理がなされていました。奉行役所は「戸部役所」とも呼ばれ、民政事務と外国人遊歩区域内取締りが主な任務で、運上所では領事事務、出入港手続き、関税徴収を取り扱っていました。

 

神奈川奉行所では治安維持や攘夷派による襲撃に備え、警察力・軍事力が整備されていました。幕臣から任命される士官としての「定番役(じょうばんやく)」と近隣からの徴募による歩兵の「番所附下番(ばんしょづきかばん)」とで組織されており、様式の兵制も取り入れていたようです。これらはいずれも武官でした。慶応

2年(1866年)、これら定番役と番所附下番は廃止され、関所・役所の警備は「支配役御用出役」と「役所附下番」という文官に任せられるようになり、神奈川奉行独自の軍事力はなくなりました。海外諸国との関係が安定するに従い、横浜港の警備強化の必要はなくなっていったのかもしれません。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年7月 6日 07:24に書いたブログ記事です。

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