東藝術倶楽部瓦版 20180710:外国奉行の前身-「海防掛」

 

おはようございます。昨晩、公安調査庁の調査官と懇談の機会がありました。本来であれば先週金曜日に約束していたのですが、当日の朝、突如オウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫以下計7名の死刑が執行されたことから、急遽アレフ関連施設の立ち入り検査実施のために駆り出されたとのこと。現場検査の責任者としてホテルに泊まりがけで任にあたり、かなりお疲れの様子でした。中国情勢の情報・意見交換の話をするはずが、前半はオウムの話題が中心になってしまいました。

 

さて、本日は、昨日紹介した外国奉行の前身となった「海防掛(かいぼうがかり)」について紹介したいと思います。

 

海防掛の正式名称は「海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり)」で、幕末の対外問題処理とこれに係る国内政策の立案、更には海岸防御等を担当した江戸幕府の役職です。寛政4年(1792年)にロシアのアダム・ラクスマンがロシアとの通商を求めて来航したことがきっかけとなり、時の老中・松平定信が海防掛に任じられたのが最初です。この時はまだ臨時の措置で、常設の役職ではありませんでした。

 

その後、度重なる外国船の渡来に危機感を抱いた幕府は、弘化2年(1845年)に海防掛を常設機関として、老中の阿部正弘と牧野忠雅、若年寄の大岡忠固と本多忠徳をその職に任じます。実際の任務は勘定奉行、大目付、目付が行い、老中よりの海防策の諮問に答える形だったようです。対外問題が幕府政治の中で比重が増してくるとその役割も増大し、海防掛は単なる諮問機関から行政機関へと変貌し、開国政策を推進するようになりました。

 

阿部正弘から抜擢された岩瀬忠震、井上清直、永井尚志、水野忠徳、堀利熙の5人は、安政五カ国条約締結に向けた交渉を担当し、安政5年(1858年)の「日米修好通商条約」調印をもって海防掛は廃止、この5人は外国奉行に任じられました。

 

この海防掛にまつわるエピソードを紹介しておきましょう。天保13年(1842年)、松平定信の次男で信州松代藩の藩主である老中・真田幸貫が海防掛の兼務を命じられます。幸貫は家臣である松代藩士・佐久間象山をその顧問として抜擢しますが、実はこのことが、象山が洋学を学ぶきっかけとなったようで、そこから象山の名が次第に知られるようになったということです。

高見澤

 

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年7月10日 08:27に書いたブログ記事です。

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