東藝術倶楽部瓦版 20180711:江戸幕府の水軍-「船手」

 

おはようございます。東京では暑い日が続きます。今日もかなり暑くなりそうです。日本経済界の訪中代表団が今年は9月9日からと、昨年に比べ2カ月早まっています。日本側並びに中国側との調整が例年になく大変で、やっと参加案内を出すことができました。経済界の重鎮が多く参加する代表団です。これまでも仕事が忙しい中、更なる激務に追われることになります。

 

さて、本日は幕府の水軍、「船手(ふなて)」について紹介していきましょう。この船手が支配する「船手組」は、江戸幕府番方の職制で、いわば幕府の水軍という位置づけです。

 

制度として確立したのは寛永9年(1632年)で、定数は時によって増減はありますが、原則として5組が基本で、各組に頭1名、水主(かこ)同心30名以上でした。船手の頭は若年寄支配の旗本役で、役高700石、布衣、躑躅間詰と、位としてはまずのところでしょうか。水主同心の数は多いときには80名、更には130名にも上ることもあったようです。

 

船手組の職務は、平時は幕府の用船の保管で、寛永17年(1640年)~寛永19年(1642年)の3年間、頭は毎年2人ずつ交代で四国・九州の浦々の巡視を行い、寛文7年(1667年)には巡見使に加えられ、江戸から大坂に至る浦々の陸路、西海道及び山陽道の国々の海辺の巡視にあたりました。

 

文久2年(1862年)に船手組は廃止となり、船手頭は勤仕並、水主同心は軍艦奉行支配となります。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年7月11日 13:28に書いたブログ記事です。

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