東藝術倶楽部瓦版 20180712:船手より格の高い「大坂船手」

 

おはようございます。今朝、5時に家を出た時には降っていなかった雨も、6時頃に職場に着いた際にはもうすでに降っており、ジメジメ感が半端なく高まっていました。パソコンの反応も悪く、瓦版を書くにも一苦労です。T芝社の製品ですが、品質がここまで落ちてしまったのかと残念でなりません。「ものづくりニッポン」はどこに行ったのでしょうか?

 

さて、本日は「大坂船手」について紹介したいと思います。前回ご紹介した江戸に置かれていた船手とは別に、大坂には「大坂船手」と呼ばれる船奉行が置かれていました。大坂船手はその職務の重要性から船手よりも格は高く、老中支配で布衣、役高は定められておらず持高のままだったようです。

 

江戸初期、西国諸国から大坂に向かう船は、今は埋め立てられていて存在していませんが、伝法川(でんぽうがわ)から逆川(さかさまがわ)を経て大坂市中に向かうようになっていました。このため江戸幕府は、元和9年(1620年)に四貫島(しかんじま)村に船奉行所を設け、こうした諸船の通行を吟味し、西国諸侯の動向を監視することにしました。この船奉行所の長官が大坂船手です。当時、伝法・四貫島は難波津に代わる大坂の要衝の津として賑わっていたそうです。現在、六軒家川(ろっけんやがわ)に架かる朝日橋のたもとに「初代大坂船奉行所跡」の碑が建てられています。その碑の字は、橋本徹氏が書いたものだとか。

 

大坂船手が支配した「大坂船手組」は、1組をもって定数とし、頭1~2名(船手)の下に与力5~6名、水主同心(かこどうしん)50名がいました。

 

大坂船手の具体的な職務は、大坂湾から木津川及び淀川への船舶の出入りの管理・掌握と、大坂湾に停泊している船舶の掌握です。そのほか、幕府の軍船管理・水兵指揮、参勤交代のため航行する西国大名の監視、琉球使節や外国使節の航行警護など、国事に係る重要な職務にも携わっていました。また、18世紀には大坂船出が小豆島(しょうどしま)・塩飽島(しあくじま)の代官を兼任することもあり、大坂における幕府の重職の一つであったことは間違いありません。船番所は四貫島のほかに、木津川口にも設置していました。

 

貞享元年(1684年)、政商として名高い川村瑞賢が旧淀川の一つである安治川(あじがわ)を開削すると、舟運も変わり、大坂へは直接安治川から出入するようになったことで、伝法川経由の船舶は大きく減少します。このため幕府は、貞享2年(1685年)に四貫島と木津川口にあった船番所を廃止し、新たに安治川と木津川の分流点に位置する九条村本田の北端に「川口船手奉行所」を置きました。元治元年(1864年)、大坂船手と大坂船奉行所は、当時軍艦奉行であった勝海舟の進言により廃止されました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年7月12日 17:37に書いたブログ記事です。

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