東藝術倶楽部瓦版 20180717:大坂城代の補佐役「大坂定番」、大番に加勢の「大坂加番」

 

おはようございます。この三連休、皆さんはどのようにお過ごしでしたか?友人や同僚などの情報を聞くと、イベントや旅行を楽しむ人も少なくありませんでした。私はといえば、相も変わらず仕事一辺倒で、土曜日と月曜日は終日出勤、日曜日は少し休んだだけで家で資料と格闘していました。そして明日から北京出張です。帰国は土曜日ですので、今週の瓦版は本日の1本のみとなります。

 

さて、本日は「大坂定番(おおさかじょうばん)」、「大坂加番(おおさかかばん)」について紹介したいと思います。本来であれば、大坂城代と一緒に紹介すればよかったのですが、失念していましたので、ここで改めて紹介致します。

 

大坂夏の陣の後、しばらく経った元和5年(1619年)に大坂城代が設置されたのはすでにお話しした通りです。その大坂城代の補佐役として設置されたのが大坂定番です。大坂城代の補佐役とはいえ、老中支配に属し、役料は3,000俵、1~2万石の譜代大名2名がその任にあたり、大坂城内の維持管理を行っていました。

 

大坂定番は大坂城在勤の番方で、主な任務は大坂城の京橋口内外と北の外曲輪筋鉄門の警備、同玉造口内外と東仕切の警備で、定番2名がそれぞれの虎口を担当していました。配下にはそれぞれ与力30騎、同心100人がいて、大坂鉄砲奉行や弓奉行など諸奉行の監督も行っていました。任期の定めは特にありませんでした。

 

大坂定番が創設されたのは、元和7年(1621年)に大番頭であった高木正次(大坂定番と同時に河内丹南藩主に移封)と越後三条藩主の稲垣重綱を定番に任じたのが最初とされていますが、一説にはそれが元和9年(1623年)だっとも言われています。その後一時空白の期間がありましたが復活し、幕末まで続きました。大坂定番が廃止されるまで、京橋口定番は29名、玉造口定番は28名が就任しています。

 

次に大坂加番です。「加番」とは、大番に加勢することから加番と呼ばれ、正式な役職ではないとされていますが、こちらも大坂定番と同じように老中支配で、小大名が任じられていました。大坂加番が設置されたのは宝永6年(1709年)で、定員は4名、大番と同じく任期は1年の交代制でした。

 

大坂城本丸・二の丸等の中心部を警備していたのは主に東大番・西大番の大番2組でしたが、それに加勢する形で山里加番(役高2万7,000石)、中小屋加番(役高1万8,000石)、青屋口加番(役高1万石)、雁木坂加番(役高1万石)の4加番が置かれていました。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年7月17日 07:38に書いたブログ記事です。

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