おはようございます。一昨日、北京出張から戻ってきました。出張期間中は会議の連続で、会議が終わってからは中国側から示された課題・提案に対する打合せ、会議報告の作成など、睡眠時間を削っての作業の連続で、昨日の日曜日は身体も頭も疲労困憊でほとんど動かない状態でした。そして今日からまた1週間が始まります。
さて、本日は江戸幕府の役職とする意見もある一方で、直参家臣団の一組織としての認識が強い「小普請支配(こぶしんしはい)」、「小普請組(こぶしんぐみ)」について紹介していきたいと思います。この2つの組織を合わせて「小普請(こぶしん)」と言いますが、以前瓦版で紹介した下三奉行の小普請奉行とは別のものです。小普請奉行は江戸幕府のれっきとした役職で、江戸城内外や幕府直営の建物・寺社の営繕を担当、下に小普請方などの行政組織がありました。
それに対して小普請は行政組織というよりは、ボランティアに近い意味合いがあり、今でいうとNPO(非営利団体)に近いのかもしれません。3,000石以下の旗本と御家人の無役の者から編制され、旗本を小普請支配、御家人を小普請組としていました。普請というのは造営修築工事のことを指し、小規模な普請があった際に、無役無勤の者が家人や召使を人足として供したのが小普請の始まりとされています。3,000石以上の上級旗本無役者や布衣以上の退職者を「寄合」としていたことは、すでに説明済みですが、その寄合や高家と同じようにこの小普請も家格という側面もあるのかもしれません。
延宝3年(1675年)、それまで実際に人夫を出していたのを1,000石につき金10両の金納に改めるよう計画がなされます。そして元禄3年(1690年)に、知行高20俵以下は無役(免除)、20~50俵は金2分、50~100俵は金1両と金納とすることに変更しました。この金納のことを「小普請金(こぶしんきん)」と言います。
小普請は、当初は留守居支配に属していましたが、享保4年(1719年)から老中支配となり、時代によって異なりますが6~12組に分けて統率され、延享3年(1746年)、各組に支配頭1名、組頭を2名(後1名)を置くこととされ、このほかに世話役、世話取扱、小普請金上納役、小普請医師などが配下にいました。
幕末になるに従い小普請は徐々に縮小、文久3年(1863年)には5組になり、慶応3年(1866年)に小普請は廃止されます。
高見澤