東藝術倶楽部瓦版 20180724:幕府のお抱え絵師-「御用絵師」

 

おはようございます。酷暑というにふさわしい日が続きます。先週出張していた北京の天候も例年にない暑さで、しかも激しい雷雨によって飛行機の遅延も日常茶飯事。ここ数年は内陸部としては珍しい蒸し暑さが続いています。明日は帝京大学での公開ゼミナールで講義の後、白鴎大学の青崎教授とのコラボレーションで日中平和友好条約締結40周年・中国改革開放40周年に関するパネルディスカッションを行います。ということで、瓦版も休刊になります。ご了承ください。

 

さて、本日は「御用絵師(ごようえし)」について紹介していきたいと思います。御用絵師とは、江戸幕府に仕える「お抱え絵師」のことで、当然幕府以外にも諸藩に仕えた絵師もしました。御用絵師には、「奥絵師(おくえし)」と「表絵師(おもてえし)」の2つの職位があり、奥絵師は表絵師よりも格式が高いものでした。

 

室町時代、足利将軍家や織田信長などが抱えていた絵師もあり、それらが御用絵師の先駆的存在であったようですが、御用絵師が制度的に整えられたのは江戸時代になってからのことです。信長に仕えた狩野永徳の孫・狩野探幽(かのうたんゆう)が慶長17年(1612年)に徳川家康に御目見えし、屋敷と扶持、知行地を与えられ、元和3年(1617年)に幕府の絵師を務めたのが始まりとされています。一般に、御用絵師の場合、宮廷、寺社、将軍家、大名、武家等の依頼主から作品の依頼があって、描いた作品や行った仕事に対して報酬が支払われましたが、江戸幕府の場合は所領や扶持が与えられ、毎月決まった日に出仕するなど、特別な待遇が与えられていました。

狩野探幽

 

元和7年(1621年)、探幽は京都から江戸に本拠内を移し、江戸城鍛治屋橋門外に屋敷を構えます。その後、探幽の一族は「中橋」、「鍛治屋橋」、「木挽町」、「浜町」4家に分立、奥絵師に任じられ、「狩野四家」と呼ばれるようになります。また、大和絵の土佐派から分立した住吉派、そしてその門人の板谷家も奥絵師に任じられました。

 

奥絵師は若年寄支配、御目見え以上の旗本と同格の待遇を受け、知行は200石、帯刀と世襲も許されていました。板谷家以外の奥絵師は、御医師並や同朋頭格・同朋格などの職格が与えられ、正式な儀式で直接将軍に拝謁することができたようです。奥絵師は、江戸城本丸大奥の御絵部屋に月に6回(一説に12回)出仕し、殿舎の装飾画など幕府の御用に従って絵画を描いていました。

 

これに対して表絵師は、御目見え以下の御家人待遇で20人扶持、出仕の義務はありません。奥絵師・狩野四家の分家や門人が一家を構えて独立し、奥絵師を補佐していました。表絵師は帯刀は許されず、一代限りを建前としていました。

 

表絵師には次の15家があります。

駿河台狩野、山下狩野、深川水場狩野、稲荷橋狩野、御徒士町(おかちまち)狩野、本所緑町狩野、麻布一本松狩野、神田松永町狩野、芝愛宕下狩野、根岸御行之松狩野、築地小田原町狩野、金杉片野町狩野、猿屋町代地狩野、猿屋町代地分家狩野、勝田狩野。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年7月24日 07:48に書いたブログ記事です。

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