2018年8月アーカイブ

 

おはようございます。今日で8月も終わり、明日から9月です。今日は9月9日から始まる日本経済界の大型訪中代表団の結団式が、経団連会館で行われます。普段、同じ会社の人でもめったにお目にかかれないような経済界の重鎮が一堂に会するわけですから、ビジネスマンからすればその光景は圧巻といったところでしょうか。世の中を動かすには、古今東西、そうした権威付が必要なのかもしれません。それだけに、気の抜けない1日になりそうです。

 

さて、本日は町奉行所の中でも、前回の与力の支配の下で任に就いていた「町方同心」について紹介してきたいと思います。もともと同心とは、戦国時代に一致団結して主人につくす下級武士のことをこう呼んでいたようで、いわゆる「足軽」を指していました。江戸幕府成立後に、徳川家直参の足軽をすべて「同心」としたため、伊賀同心、甲賀同心、鉄砲百人組、八王子千人同心等の同心職が設置されました。

同心は、与力同様に諸奉行や所司代、城代、大番頭、書院番頭、火付盗賊改等の配下で、与力支配の下で庶務や見回り等の実務を担当していました。特に江戸町奉行所に置かれていた同心は「町方同心」と呼ばれ、南北奉行所にそれぞれ100人(後に140人に増員)の同心が配置されていました。与力が馬上格であったのに対し、同心は「徒歩(かち)格」で、俸禄は30俵二人扶持、一代限りの抱席でしたが、実際には新規採用の形で世襲されていました。能力によっては、稀に与力に昇格する例もありましたが、町奉行所以外への異動は認められていませんでした。

 

俸禄は低かったものの、「年番方」や「吟味方」、「廻り方」などの重要な職に就いた同心に対しては、大名、旗本、豪商などからの付け届けがあり、生活に困ることはなかったようです。また、与力同様に京橋八丁堀に100坪程度の組屋敷が与えられていたことから、「八丁堀」が彼らの通称となっていました。一方で、町方与力と同様に罪人を扱う汚れ仕事であったことから、不浄役人と蔑まれることもあったようです。

 

町方同心の中でも特に庶民に馴染が深かったのが廻り方です。「三廻り」とも呼ばれる警察業務を担当する同心で、通常同心の上には与力がいるのですが、廻り方は町奉行の直接の支配下に置かれていました。廻り方には、巡回・治安維持を担う「定(じょう)廻り同心」が南北それぞれに6名、臨時に各方面に出向く「臨時廻り同心」が各6名、秘密裏に探索を行う「隠密廻り同心」が各2名と、正規の江戸の警察部隊はわずか28名と極端に少なかったことは驚きです。このため、廻り方同心は自腹で非公認の協力者として「御用聞き」と呼ばれる「岡っ引き」と、その配下である「下っぴき」を雇うことで、江戸の治安を保っていたのです。

高見澤

 

おはようございます。昨日、一昨日は瓦版をお送りできなく、失礼しました。9月9日から始まる日本経済界の大型訪中代表団の準備に関して、新日鐵住金の宗岡会長と、日本商工会議所の三村会頭を朝一番で往訪し、ご進講していた関係で、瓦版も急遽休刊させていただきました。今後、しばらくはこのような事態が生じることもありますので、ご了承ください。

 

さて、前回に引き続いて本日も「江戸町奉行所」について紹介していきましょう。江戸町奉行所において、町奉行が唯一の旗本であったのに対し、その下で働く「与力」及び「同心」は御家人から登用されていたことは、前回お話しした通りです。

 

与力は、もともと「寄騎」とも書かれ、江戸時代に入る前は備(そなえ)を編制する際に、足軽大将などの中級武士が大身武士の指揮下に入る意味合いをもった言葉として用いられていたようです。江戸時代においては、同心とともに町奉行、遠国奉行、留守居、所司代等の役方や、大番頭、書院番組頭、先手頭等の番方に属し、主に庶務、警察、裁判事務などを担当し、下役の同心を指揮・監督していました。ここでは、主に江戸町奉行支配下の「町与力(町方与力)」について紹介したいと思います。

 

町与力は、江戸町奉行所においてその中枢を担う実力者で、職禄は200石、延享2年(1745年)以降、南北奉行所にそれぞれ25騎の与力が所属していました。与力を「騎」と数えるのは、馬上任務が許されていたことから馬も合わせて数えていたためです。身分としては、建前は一代限りの抱席でしたが、新規採用という形で世襲されていたのが実態で、このため町与力以外への移籍はできませんでした。

 

町与力は役宅として京橋八丁堀(現在の東京都中央区)に300坪程度の組屋敷が与えられ、八丁堀銀杏の髪型で羽織袴を纏っていたことから、「八丁堀の旦那衆」と呼ばれていました。職禄は決して多くはありませんでしたが、有力与力ともなると大名や旗本、富商等からの付け届けが年間3,000両にも上る者もいたようで、家計はかなり豊かであったようです。与力、力士、火消の頭を「江戸の三男(さんおとこ)」として粋な男の代名詞ともなっていた一方で、罪人を扱うことから「不浄役人」とも呼ばれることもありました。与力の家格は御家人、すなわち御目見え以下でしたから、将軍に謁見することはもちろん、江戸城に登城することも許されていませんでした。

 

与力の職掌としては、財政・人事を担当する「年番方(ねんばんがた)」、詮議役の「吟味方(ぎんみがた)」、判例の整理・調査を行う「例繰方(れいぐりがた)」など多くの定役のほか、臨時の際の分掌である出役(でやく)も少なくありませんでした。特に18世紀以降は更に業務が細分化したため、1人でいくつもの役掛を兼務することもありました。また、町奉行の家臣から任命される秘書役を務める「内与力」も奉行所に置かれていました。町奉行所の具体的な役職と業務内容については改めて紹介していきましょう。

 

高見澤

 

おはようございます。相次ぐ台風の到来もあって、少し涼しくなってきたかと思いきや、また猛暑がぶり返している日本列島です。我が職場も来月9日からの経済界の大型訪中代表団の派遣に向け、殺気立つ張りつめた雰囲気の中での仕事が続きいています。

 

さて、本日からはもう少し江戸の庶民の生活に密着したシリーズにしていきたいと思います。とはいえ、江戸の町の治安や防火といった点では、幕府の関与が欠かせません。そこで、本日は江戸の行政、司法、立法、治安などを取り扱った「江戸町奉行所」について紹介していきたいと思います。以前、江戸幕府の役職のところで、町奉行については詳細に紹介したので、その点はなくべく重複を避けて説明したいと思います。

 

江戸町奉行所は、南町奉行所と北町奉行所が月番制でその任に当っていたことは、以前ご紹介した通りです。江戸町奉行所の構成員として、江戸町奉行の下、与力、同心がおり、その下に中間、小者といった雑用係がいました。南北それぞれ1名ずつであった町奉行は町奉行所で唯一旗本から任じられていました。それに対して与力と同心は御家人が務めており、与力の定員は南北合わせて50騎、同心は合計240人となっていました。

 

江戸町奉行は、就任時に諸大名当主と同格の従五位下諸大夫の官位を授かります。寺社奉行、勘定奉行、町奉行の三奉行と京都所司代及び大坂城代にしか閲覧を許されなかった「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」という法典によって、町奉行は裁きを行っていました。

 

町奉行には休日というものがありません。基本的に町奉行所内に居住し、毎日辰の刻(午前8時)に江戸城に登城して事案の報告や老中等からの指示を受け、未の刻(午後2時)に奉行所に戻り執務を行っていました。また、評定所の構成員として幕政にも関わるなど職務は相当な激務だったようで、在職中に過労死した者も少なくなかったことは、以前にも紹介した通りです。今で言えば、東京都知事、都議会議長、地方裁判所長、地方検察庁検事正、警視総監、消防総監等の職務を併せ持っていたのですから、月番制とはいえ常に心労は絶えなかったと思います。

 

町奉行所での裁判に関し、町奉行が行うのは初審と判決の言い渡しのみでした。実務は追って紹介する「吟味方与力」等が行っていました。裁判の判決は公事方御定書に基づいて行われるため、奉行の一存で決められるようなものではありません。刑事裁判では、遠島と死罪の判決は老中へ仕置伺いを出し、評定所での審議を基に老中が決め、形式的には将軍が容認し、老中から町奉行所に通達する形をとっていました。評定所は最高裁判所のような機能も備えていたといえます。ちなみに、示談や民事裁判での判決は町奉行の一存で決められていました。

 

次回も引き続き、江戸町奉行所について紹介していきます。

 

高見澤

 

おはようございます。台風20号がまた大きな被害をもたらしているようです。東京都心は、天気予報では昨日夕方から雨の予報でしたが、実際に降り出したのは夜半のようで、帰宅した10時前はまだ降り始めてはいませんでした。今朝の東京都心は雨、高台では比較的強い風も感じられます。この後、昼にかけて雨は止むとの予報です。

 

さて、本日は前回に続いて伺候席の続きを紹介していきましょう。

今回は帝鑑間からです。帝鑑間は、主に譜代大名が詰める場所ですが、宍戸藩松平氏や広瀬藩松平氏等の親藩、松代藩真田氏のような御願譜代等もこの席となっていました。

 

柳間については、位階が五位及び無官の外様大名、交代寄合、表高家、その他寄合衆が詰める部屋です。準国持大名でも五位の間は柳間に詰め、四品に昇進すると大広間に移るのが慣わしで、嫡子もこれに同席していました。

 

雁間は、江戸幕府成立後、能力や功績で取り立てられた譜代大名のうち、城主格の者が詰める部屋です。老中や所司代の世子もこの席に詰めていました。ここに詰める大名は「詰衆(つめしゅう)」と呼ばれ、他の席の大名と異なり、交代で毎日登城することになっていました。

 

菊間広縁は「菊間縁頬(きくまえんきょう)」ともいい、江戸幕府成立後、新たに取り立てられた大名のうち、2万石以下の無城の者が詰める席となっていました。ここに詰める大名は「詰衆並(つめしゅうなみ)」とも呼ばれていました。

 

「菊間(きくのま)」は雁間大名の嫡子の席として、菊間以下の伺候席に大名当主が詰めることはありませんでした。また、大番頭、書院番頭、小姓組番頭、旗奉行、槍奉行、持弓頭、持筒頭、鉄砲百人組頭等の幕府直属の軍司令官の詰所でもありました。

 

番方の詰所に対して、町奉行、勘定奉行、大目付、遠国奉行、下三奉行等の幕府中枢の上級役人の詰所となっていたのが、「芙蓉間(ふようのま)」です。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日、日中はかなり暑かった東京都心ですが、それでも朝晩は大分涼しくなりました。台風20号の影響もあり、本日夕方から雨になり、明朝まで続くとの予報です。一日一日とまた涼しくなっていくことでしょう。

 

さて、今回と次回の2回にわたり「伺候席(しこうせき)」について紹介したいと思います。本瓦版でも言葉としては出てきた大名・旗本の家格を表すものですが、ここで少し詳しく解説しておきたいと思います。

 

伺候席とは、江戸城に登城した大名や旗本が、将軍に謁見する際に順番を待っていた控えの間のことで、「殿席(でんせき)」や「詰所」とも呼ばれていました。大名や旗本の出自、官位、役職等を基に幕府によって定められていて、「大名殿席」とよばれる大名が詰める伺候席には、「大廊下(おおろうか)」、「大広間(おおひろま)」、「溜詰(たまりづめ」、「帝鑑間(ていかんのま)」、「柳間(やなぎのま)」、「雁間(かりのま)」、「菊間広縁(きくのまひろえん)」の7つがありました。また、幕府の役職を持つ旗本の詰所として「菊間(きくのま)」や「芙蓉間(ふようのま)」、「中之間(なかのま)」、「躑躅間(つつじのま)」、「焚火間(たきびのま)」が用意されていました。

 

先ず大廊下は、主に将軍家の親族が詰めていた部屋です。「松の廊下」に面した部屋で「上之部屋」と「下之部屋」の二つに仕切られていました。上之部屋には御三家のほか、江戸初期には三代将軍・家光の血筋である甲府藩、館林藩の「御両典」、江戸中期以降は御三卿の当主もここに詰めるようになりました。下之部屋には加賀藩前田家のほか、江戸初期には福井藩松平家(後に大広間)や古河公方家(足利氏)の末裔・喜連川氏(後に柳間)の当主もここに詰めていました。

 

次に大広間です。ここは外様大名や親藩(御家門、御三家連枝)のうち、位階が四位の大名が詰める部屋でした。薩摩藩島津家、仙台藩伊達家、熊本藩細川家等の国持大名や尾張松平家、紀伊松平家、松江松平家等の親藩がこれにあたります。

 

その次は溜詰です。ここは将軍の執務室である「中奥」に最も近く、臣下に与えられる最高の席といえます。「黒書院(くろしょいん)」に隣接していることから「黒書院溜之間〔松溜(まつだまり)〕」の部屋にその名前の由来があるとされています。将軍家に最も信頼されている重鎮の親藩や譜代の詰所となっていました。会津藩松平家(御家門)、彦根藩井伊家(譜代)、高松藩松平家(水戸連枝)の三家は「定溜(じょうだまり)〔常溜(じょうだまり)、代々溜(だいだいたまり)〕」として代々溜詰が詰所となっており、松山藩松平家(譜代侍従)、姫路藩酒井家(譜代侍従)、忍藩松平家(譜代侍従)等は「飛溜(とびだまり)」といって、位階が五位の間は帝鑑間詰ですが、四品に昇進後に溜詰となる慣わしとなっていました。また、永年老中を務めて退任した大名を「前官礼遇」の形で一代に限って溜詰の末席に詰めることもあり、これを「溜詰格」と呼んでいました。初期の段階では4~5名の定員であった溜詰ですが、江戸中期以降は飛溜の大名も代々詰めるようになり、結果として幕末期には15名近くにもなっていたようです。儀式の際には老中よりも上席に座ることとなっており、本来その格式はかなり高いものでしたが、定員が増えるとともに形骸化していきました。

 

ちなみに江戸城の黒書院は、日常的な行事が行われた間で、毎月1日と15日に行われる将軍への月次御礼に関し、大廊下詰と溜詰の大名に対しては黒書院で、その他の大名は「白書院(しろしょいん)」で行われていました。浅田次郎の小説「黒書院の六兵衛」で名が知られるようになった黒書院は、かなり格式の高い部屋であり、通常であれば一書院番士が留まることなど許されない場所でした。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は曇り、昨日は午後と夕方以降に雨の予報で、午後に日本橋にある三井不動産本社を訪問したのですが、幸いにも雨に降られることなく、無事事務所まで帰ることができました。今日はこれから晴れていくようです。明日は、早朝から朝食懇談会に出席するため、瓦版もお休みさせていただきます。

 

さて、本日は「武家官位」の具体的な中身について紹介したいと思います。武家官位のうちの「位階」について、上から順に「一位」から「六位」まであり、それぞれに「正」と「従」があります。また、正四位以下にはそれぞれ「上」と「下」に分けられています。具体的には以下の通りです。

 

正一位 → 従一位

正二位 → 従二位

正三位 → 従三位

正四位上 → 正四位下 → 従四位上 → 従四位下

正五位上 → 正五位下 → 従五位上 → 従五位下

正六位上 → 正六位下 → 従六位上 → 従六位下

 

この位階に相応する官職があります。例えば次の通りです。

正一位:関白

従一位:太政大臣

正二位:左大臣、右大臣

従二位:内大臣、蔵人別当(くろうどべっとう)

正三位:大納言、権大納言(ごんだいなごん)

従三位:中納言、権中納言、弾正尹(だんじょういん)、

    左近衛大将(さこのえたいしょう)、

    右近衛大将(うこのえたいしょう)、

    太宰帥(だざいそち)

正四位上:中務卿(なかつかさきょう)

正四位下:参議、式部卿(しきぶきょう)、治部卿(じぶきょう)、

     民部卿(みんぶきょう)、兵部卿(ひょうぶきょう)、

     刑部卿(ぎょうぶきょう)、大蔵卿、宮内卿

 

上記の官職は、学校の歴史の教科書にも出てきたものも少なくありません。時代劇等でみられる「○○頭(○○のかみ)」や「○○守(○○のかみ)」というのは従五位相当の官職になります。

 

江戸時代、大名に与えられた位階は、鎌倉以降の宮中の武官の家格とされた「羽林家(うりんけ)」に倣い、一般の大名は従五位下(諸大夫)、特に家格が高い大名は従四位下(四品)でした。明治時代に編纂された徳川幕府の儀礼・規制関係の資料集『徳川礼典録』によると、初めて与えられる位階が従四位下以上の大名家は34家、及び初めての位階が従五位下で家督後数年で従四位下、後に「侍従(従四位下)」となる14家を合わせて「官位特格48家」としています。上記34家には、徳川御三家、伺候席が溜の間三家、国持大名20家、準国持1家、徳川家庶流4家、その他3家があり、14家には準国持2家、外様3家、徳川家一門5家、譜代4家があります。

 

このように、初めて与えられる位階は家格によって決まっていましたが、位階を受けた後に「極位(きょくい)」というその家としては最高の位階を受けることで、家格が上下することもあります。例えば、将軍家は従二位、御三家・御三卿・加賀前田家は従三位、加賀前田家家督は正四位上、会津松平家・越前松平家は正四位下、従四位上は島津家・伊達家・高家(旗本)、その他国持・準国持等は従四位下などです。ちなみに、四位以上になると御所昇殿が叶うことになります。また、以前にも紹介しましたが、旗本が位階を授けられる場合は武家官位の最下位である正六位相当の布衣となります。

 

こうした位階から幕府の主な役職の官職が分かってきます。将軍は左・右大臣や右近衛大将、御三家のうち尾張家と紀伊家は大納言や権大納言(亜門)、水戸家は中納言や権中納言(黄門)、加賀前田家は参議、御三卿は式部卿や刑部卿、会津松平家と島津家及び伊達家は左近衛中将(さこのえちゅうじょう)などです。これらはいずれも極位です。

 

家格によって上記のような位階と官職が官位として授与されるとともに、官位の変動によって家格もまた変わってくることになります。

 

高見澤

 

おはようございます。ここ数日は比較的涼しい日が続いています。東京は、今は曇っていますが、この後雨になる予報です。台風19号に続き、20号がまた西日本に向かうとの予測、更には世界各地で頻発している地震の動きも気になるところです。

 

さて、本日は武士の家格を決める際に重要な判断基準となる「武家官位」について紹介したいと思います。日本において官位とは、役人としての役職である「官職」と、その人の貴賤を序列で表す「位階」の双方を総称した呼び名です。それぞれの官職には相応の位階に叙位されていなければならず、それを「官位相当」といいます。この制度が「官位制(官位制度、官位相当制)」と呼ばれるものです。

 

日本の官位制は、もともとは中国の政治・行政制度の影響を受けたものですが、日本に伝来して以来、独自の発展を遂げてきました。官吏を序列化する制度の始まりは、推古天皇11年(603年)に聖徳太子が定めた冠位十二階だと言われています。その後、大宝元年(701年)に成立した「大宝令」と養老2年(718年)に成立した「養老令」に記された『官位令』によって官位制が確立しました。

 

官位制の本来の目的は、位階と官職を関連付けて任命することにより、官職の世襲を廃して適材適所の人材登用を図ることにありました。とはいえ、高位者の子孫には一定以上の位階に叙位する「蔭位の制(おんいのせい)」なるものが設けられるなど、実質的には形骸化していたのが実情です。結果的に官位は血脈的な尊卑を表すようになり、家柄、身分、家格を示す標準としての権威となっていました。

 

本来、官位は朝廷から叙任されるものでしたが、鎌倉時代に武家政権が誕生すると、御家人の統制のために将軍の許可なく任官することが禁じられます。武家の叙位任官は幕府から朝廷へ申請する「武家執奏(ぶけしっそう)」が制度化され、室町幕府へと引き継がれます。これが戦国時代から安土桃山時代にかけて武家官位として成立していくのですが、諸国の有力大名が相次いで高位の官位に任官されてしまうと、官位自体が不足することになり、公家の昇進体系が麻痺するという事態が生じてしまいました。

 

そこで徳川家康は、江戸幕府の開幕以降、官位を武士の統制手段として利用すべく制度改革に乗り出します。慶長11年(1606年)に武家官位は江戸幕府の推挙とすることが義務付けられ、慶長16年(1611年)に武家官位を「員外官(いんがいのかん)」として「公家官位」と切り離され、「禁中並公家諸法度」により制度化されました。これによって武士の官位保有が公家の昇進を妨げとなっていた事態を防止することができるようになりました。

 

江戸幕府においても武家の官位任命者は事実上は将軍とし、大名家や旗本が朝廷から直接昇進推挙を受けた場合でも、必ず将軍の許可を受けなければなりませんでした。形式的な手続きになりますが、先ずは将軍が任じた官位を幕府から朝廷に申請して、天皇から勅許を得る形をとって、はじめて正式な官位が認められることになります。朝廷からの官位叙任を示す文書である「位記(いき)」、「口宣案(くぜんあん)」の発給にあたっては、「従五位下諸大夫」で金十両、「大納言」で銀100枚といったように、天皇に対して金子を進上することになっており、武家官位の授与は朝廷にとって重要な収入源の一つになっていたようです。

 

江戸幕府初期には武家官位を受けていない小大名も少なくありませんでしたが、寛文4年(1664年)の「寛文印知(かんぶんいんち)」によって大名の格式が整備されて以降、ほとんどの大名が官位を受けられるようになりました。

 

次回は、具体的な官位の中身について紹介していきましょう。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は少し風もあり、いつになく涼しく感じました。とはいえ、まだまだ暑い日が続くようです。最近は突然の大雨や突風も各地で起きています。先日、長野に行く際にも二カ所で激しい雨に出会いました。

さて、本日は「御家人の家格」について紹介したいと思います。

徳川幕府直参の家臣の中でも、将軍に御目見えすることが許されない家格のものを御家人と称していたことは、以前にの紹介した通りです。御家人の俸給は、知行100石前後以下、或いは年俸として手当をもらう蔵米取りでした。幕府の上級職には就けず、基本的には中級職以下に就くか、無役となっていました。今でいえば、旗本がキャリア官僚、御家人がノンキャリといったところでしょうか。

御家人にも当然のことながら序列による家格がありました。以前、御家人の紹介で「譜代(ふだい)」、「二半場(にはんば)」、「抱席(かかえせき)」について少し紹介したことがありました。御家人のところでも紹介した通り、譜代は4代将軍・家綱より前の時代に将軍家に与力や同心として仕えた経験のある者、それ以降新たに御家人として登用された者が抱席で、その中間にある者が二半場と呼ばれていました。

由緒ある譜代は、江戸城内の「躑躅の間(つつじのま)」や「焼火の間(たきびのま)」に席が設けられ惣領に家督相続が認められる倅家督となっていました。御抱えが世襲となる二半場も譜代準席として、譜代同様の家督相続が認められていました。それに対して抱席は原則として一代限りの奉公でしたが、この原則もまた時代とともに次第に曖昧になっていったようです。

御家人は、基本的には徒士であり乗馬は認められていませんでしたが、「諸組与力」には江戸御府内では乗馬が許されていました。このため、与力は「騎」をもってその数を表します。与力の下に、徒士や足軽である「諸組同心」がおり、こちらは乗馬は許されていませんでした。徒士は身分ではなく職名であり、足軽については江戸幕府では正式名称として使われていません。武士として御家人の最下級の地位のものが同心ということです。

こうした御家人の下に「中間(ちゅうげん)」、「小者(こもの)」がいました。これらは武士(侍身分)ではなく、苗字や刀を持つことはできませんでした。持つことが許されたのは木刀1本です。中間は足軽と小者の間の身分のことを指し、中間も小物も職務は戦場や平時における雑用でした。

高見澤

 

おはようございます。 しばらくの間、お休みをいただきました。父親の一周忌と新盆を兼ねた法事も無事終わり、まさに長野までとんぼ返りで、その間も電話やメールで部下への指示と資料作りと気の休まることのない夏休みでした。今日からまた出勤で、朝から晩まで忙しい日々が続きます。

 

さて、本日は「旗本の家格」について紹介していきたいと思います。旗本は、徳川家直参で1万石未満の家臣のうち、御目見え以上であることは以前紹介した通りです。知行の最低ラインは100石前後であったようです。その旗本の中でも徳川氏に仕え始めた時代によって、分類されることがあります。古い時代からいえば次の通りです。

 

三河譜代(安城譜代、岡崎譜代)

遠州譜代

駿河譜代

甲州譜代

信州譜代

関東譜代

 

以上のような譜代については、譜代大名でも紹介しましたが、こうした仕え始めた時代によって家格が決まってくるのは旗本においても同様でした。もちろん、関ヶ原の戦い以降に家臣になった者のなかでも、才能や名家出身ということで旗本になった例もあります。そして、旗本から大名に昇進した例も多くはありませんがあります。

旗本は基本的に代々世襲が許されており、将軍から与えられた知行地の石高によっても家格が決まっていました。3,000石以上の上級旗本を「寄合」、この寄合と2,000石以上で守名乗りができた者を「大身旗本」と呼んでいたことは以前説明した通りです。また、これとは別に「高家」という家格があったことも既に説明した通りです。

 

旗本の家格を示す概念に「布衣(ほい)」というものがあります。本来、布衣というのは平安時代の中流階級の都人のお洒落着のことを指していたようですが、それが後に模様や裏地のない質素なものを指すようになったものです。これを江戸幕府が元和元年(1615年)に服制を定め、布衣が旗本の礼装に採用され、更には旗本の家格を示すようになりました。布衣は、追って説明する官位の「六位」に叙位された者の扱いとされ、武家官位では最下層となっていました。

 

官位については改めて紹介しますが、本来は幕府が朝廷に対して奏請し、朝廷からの口宣(くぜん)、位記(いき)授与等の正規な叙位手続きが必要です。しかしこの布衣については、幕府内において正規の手続きなしに六位に叙位された者として扱われていました。

 

布衣(六位)の上位に当たるのが「五位」の「諸大夫(しょだいぶ)」です。古来、「四位」までしか昇進できない低い家格の貴族のことを指していたようですが、江戸時代になると親王家や摂家の家政を司る家司(けいし)の職名となり、その官位が五位であったことから、五位に任じられた大名や旗本が諸大夫と呼ばれるようになりました。こちらは朝廷からの正規な手続きを受けた後に、叙位されることになっていました。

 

布衣の六位は武家官位の最下層とはいえ、官位ですから旗本の中でもその家格は決して低くはありません。幕府の重職に就くにも「布衣以上」という条件が付いていたほどですから、如何に布衣としての家格が重要視されていたかが分かります。一方、御目見え以上であっても、官位のない旗本は「平士(へいし)」と呼ばれており、幕府の重職に就くことはほとんどなかったものと思われます。

 

高見澤

 

おはようございます。台風が来て涼しさを感じたのもつかの間、また猛暑がぶり返しています。猛暑日を超える「酷暑日」なる言葉も飛び交うこの頃ですが、皆さんは夏休みはどう過ごされますか? 実は、来週少し夏休みをいただき、昨年亡くなった父親の一周忌と新盆を兼ねた行事が佐久の実家で行われるため、月曜の夜に東京を経って、火曜日の行事に参加、その夜にまた東京に戻ることになっています。仕事が忙しくて、のんびり温泉に浸かっている閑もありません。ということで、来週は月曜日から水曜日まで瓦版も休刊とさせていただきます。ご理解の程、よろしくお願い致します。

 

さて、本日は具体的な家格制度のうちの「大名の家格-その一」について紹介していきたいと思います。江戸時代の大名については、徳川将軍家との関係によって親藩、譜代、外様の3つに分けることができること、さらに親藩の中でも御三家、御三卿、その他御家門など、家柄によって家格を示すことがあることは、すでに紹介した通りです。

 

大名については、これとは別に所領やその石高、居城の有無によって家格を示す制度がありました。一国以上、或いはそれに相当する広大な所領を持つ「国主(国持ち大名)」、国主に準ずる格式を与えられた「準国主(準国持ち大名)」、国主及び準国主以外で居城が認められていた「城主(城持ち大名)」、城は持たないが城主と同じ待遇を受ける「準城主(城主格大名)」、城を持たない「陣屋(無城)大名」の5段階に分けられていました。この他にも、「居館」に居住していた「交代寄合旗本」も陣屋大名と同格の地位が与えられていたようです。

 

国主大名は、一国一円の12家(当初は10家)と大領を有した大身国持6家の計18家がこれにあたります。一国一円12家とは、①加賀金沢前田家、②薩摩鹿児島島津家、③長門萩毛利家、④因幡鳥取池田家、⑤阿波徳島蜂須賀家、⑥筑前福岡黒田家、⑦安芸広島浅野家、⑧備前岡山池田家、⑨土佐高知山内家、⑩対馬府中宗家、⑪伊勢津藤堂家、⑫出雲松江松平家(親藩)を指します。大身国持6家とは、①陸奥仙台伊達家、②肥後熊本細川家、③肥前佐賀鍋島家、④筑後久留米有馬家、⑤出羽秋田佐竹家、⑥出羽米沢上杉家を指します。また、上記18家も時代によって変化し、越前福井松平家(親藩)、陸奥盛岡南部家、美作津山松平家(親藩)、大和郡山柳沢家(親藩)などが大身国持とされています。大身国持は表高20万石以上で半国以上の領地を知行としていました。

 

準国主としては、①伊予宇和島伊達家、②筑後柳川立花家、③陸奥二本松丹羽家の3家がこれにあたります。この3家はいずれも表石高10万石以上で、国主に準ずる家格とされていました。

 

国主、準国主は共に国許で城で居住すること、すなわち「居城」が許されていました。そして国主、準国主以外で居城が許されていたのが城主大名です。江戸幕藩体制下において「城」の定義は、「石垣の上に塀と櫓を有している」建築物で、それ以外は「陣屋」とされていました。城主大名としては、彦根井伊掃部頭(かもんのかみ)家、姫路酒井雅楽頭(うたのかみ)家、富山前田出雲守(いずものかみ)家、加賀大聖寺(だいしょうじ)前田飛騨守(ひだのかみ)家など150以上の大名が居城を認められていました。

 

居城を許されない大名のことを陣屋大名と呼び、陣屋で居住することを「在所」といって居城とは区別していました。在所でありながら城主に準ずる待遇を受ける大名を城主格大名といいます。元和元年(1615年)の「一国一城令」によって主城以外の城が破却されると、その後取り立てられた家や分知大名が出てくると与える城地が不足する事態が生じます。そこで長年幕府に貢献した家や旧家・名族に対して、居城ではないが城主待遇とする処置を施すことになります。越後井伊家与板藩、信州内藤家岩村田藩、越前酒井家敦賀藩など譜代の支藩や大藩の分家・支藩等がこれにあたり、幕末の慶応3年(1867年)には19家あったそうです。

 

そして、城主格大名以外の居城を許されない大名が本当の陣屋大名となるわけです。一口に大名といっても、こうした知行の大きさによったり、城が持てたり持てなかったりで家格が決まっていたのです。

 

高見澤

 

 

おはようございます。台風13号の影響が心配されていたところですが、台風の進路が少し東側にずれたおかげで、東京都心はあまり大きな被害は出なかったようです。それでも千葉県や茨城県の一部が暴風域にありますので、まだまだ予断は許しません。それから今朝は話題をもう一つ。沖縄県の翁長雄志知事が亡くなりました。享年67歳、普天間基地の移設問題で日本政府と対立を続けてきた翁長知事の死もまた、今の日本を象徴しているように思えてなりません。

 

さて、江戸幕府の主な役職については一通り紹介してきました。他にもたくさんの役職がありこれを続けていると、正直言ってきりがありません。そろそろ次のシリーズに移りたいと思いますが、その前に、「武家の家格」について少し捕捉説明しておきたいと思います。江戸幕府の役職を決定する際に、家格が大きく係っていたことは、これまでも説明してきた通りです。

 

「家格」とは、読んで字の如く「家」の「格」を指します。大よそ人類社会が築かれてからその権威と役割によって身分制が敷かれ、その社会の秩序を維持するために制度化された評価体系ともいうべきものでしょうか。古代中国においては、紀元前1900年頃には「夏(か)王朝」の存在が認められており、その頃にはすでに身分制度があり、商(殷)、周と時代が下るに従って家格のようなものが次第に形成されていったものと思われます。

 

一方、日本においても天皇を中心とした政治体制が固められていく中で、同様に家格体系が構築されていったと考えられます。日本において家格に対する考え方が定着するのは、平安時代中頃の貴族の間であったと考えられます。古代の律令国家時代の官僚制度が職業として存在していましたが、その頃から特定の家柄の人たちによって代々世襲されるようになり、それが家格として定着していったものと思われます。

 

これが戦国時代から江戸時代になると、武家の家格ということで、武士の任官と深くかかわってきます。江戸時代の大名や直参は官位、知行国の石高、江戸城内の伺候席などで厳しく統制・区別されていたことは、これまでの数々の紹介からもご理解いただけたかと思います。次回以降、具体的にそれぞれの家格を示す制度について紹介していきましょう。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は曇り、台風が近づいていることから雨を覚悟していたのですが、運良く濡れずに出勤することができました。それでも時々強い風が吹きますが、気温が低めで歩きやすい朝を迎えています。今日の昼間は強い雨の予報となっており、昼食に出るのがおっくうです。

 

さて、本日は時代劇でお馴染みの「火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)」について紹介したいと思います。火付盗賊改方は主に、江戸時代に重罪とされてきた火付け(放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博を取り締まった役職で、「火盗改(かとうあらため)」、或いは「火盗(かとう)」などと略して呼ばれることもあります。元々は先手弓頭や先手筒頭から選ばれた臨時の役職で、先手頭との兼職、いわゆる「加役(かやく)」として設置されました。

 

火付盗賊改方が設置されるきっかけとなったのが明暦3年(1657年)の明暦の大火です。明暦の大火後、江戸では放火犯や盗賊などの凶悪犯がはびこっていました。そこで幕府は、寛文5年(1665年)に先手頭の水野守正が関東強盗追捕に任じます。これが「盗賊改(とうぞくあらため)」加役の最初だと言われています。盗賊が武装集団であった場合、非武装の町奉行では対応できず、武力制圧するためにも武装組織が必要となっていたのです。中国の「武装警察(武警)」に相当するところでしょうか。その後、天和3年(1683年)には「火付改(ひつけあらため)」加役が設けられています。

 

元禄12年(1699年)、盗賊改と火付改は一度廃止され、その職務は三奉行の管轄に入りますが、赤穂事件のあった元禄15年(1702年)に盗賊改、翌元禄16年(1703年)に火付改めがそれぞれ復活し、更に正徳5年(1715年)に「賭博改(とばくあらため)」加役が設けられました。この3つの改加役を合わせる形で享保3年(1718年)に火付盗賊改が先手頭の加役として設置されることになります。この時、賭博改は町奉行の下に移管されたとの説もありますが、定かではありません。その後、火付盗賊改方は文久2年(1862年)に先手頭加役から独立して専任制になりますが、慶応2年(1866年)に廃職されました。

 

火付盗賊改方は、先手頭の加役でもあることから若年寄支配(後に老中支配に)で、任期1年の本役加役は2名、任期半年の当分加役が2名で、当分加役は火事の多い秋冬(9月~3月)に任命されていました。役高は百人扶持、1,500俵で、配下に与力1056騎、同心3050名のほか、町奉行と同様に「目明し(めあかし)」を使っていました。ただ、同じ江戸の町の治安を預かる者として、町奉行が役方(文官)であるのに対し、火付盗賊改は番方(武官)であったことから取締りは乱暴で、誤認逮捕や冤罪も多かったようです。

 

火付盗賊改方として有名なところでは、「鬼勘解由(おにかげゆ)」の名で知られている初代火付改・中山直守(息子の直房との説もある)や、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公、長谷川宣以(はせがわのぶため)がいます。

 

高見澤

 

おはようございます。夏休みを取っている人がいるのか、普段に比べ電車が空いているように思えます。そうした中、台風13号が関東を直撃する可能性が高まっているようで、夏休みを計画している人にとってはとんだ災難かもしれません。

 

さて、本日は「奥右筆(おくゆうひつ)」と「表右筆(おもてゆうひつ)」について紹介したいと思います。そもそも「右筆(ゆうひつ)」とは「執筆(しゅひつ)」とも呼ばれ、中世から近世にかけて武家社会における秘書役を担う文官のことを指しています。最初は文章の代筆が本来の職務とされていましたが、次第に公文書や記録の作成など事務官僚としての役目を負うようになり、江戸時代には「祐筆」という表記も用いられていました。

 

織田信長や豊臣秀吉の時代には「右筆衆(ゆうひつしゅう)の制」が制定され、右筆衆は行政文書の作成のほか、奉行や蔵入地代官なども兼務していました。豊臣政権時代の五奉行であった石田三成、長束正家、増田長盛は秀吉の右筆衆出身でした。

 

戦国大名時代の徳川家にも右筆は存在していたと思われますが、家康の勢力拡大や天下掌握の過程で三河時代の右筆も奉行・代官等の行政職や譜代大名などに採用されるようになり、江戸幕府成立時には旧室町幕府奉行衆の子弟や豊臣政権の右筆、更には旧後北条家の右筆などが採用されていました。江戸幕府初期の右筆の職務は、将軍の側近として御内書(ごないしょ)・奉書の執筆や法度浄書などの実施、老中などの指示に従って公文書などの作成でした。

 

5代将軍・綱吉が館林藩主から将軍となった際に、綱吉は館林から右筆を連れて江戸城に入ります。綱吉は、従来の右筆に代わり彼らに自己の機密のことに関与させることになります。これにより従来の右筆は表右筆となり、館林から連れてきた右筆を奥右筆とする制度が確立しました。天和元年(1681年)のことです。その後、奥右筆に空席ができた場合には、表右筆から後任を選ぶのが慣例となりました。

 

表右筆の主な職務は、単なる幕府の書記役で、老中奉書や幕府日記、朱印状、判物の作成、幕府から全国に頒布する触書の浄書、大名の分限帳(ぶんげんちょう)や旗本など幕臣の名簿管理など限定されたものでした。表右筆の構成は、定員2~3名の表右筆組頭と30名前後(後に80名前後)の表右筆です。組頭の役高は300石、役料150俵、四季施代銀20枚で、表右筆の役高は蔵米150俵、四季施代銀20枚でした。

 

一方、奥右筆の主な職務は、幕府の機密文書の管理や作成、老中の諮問に基づく各種調査や意見具申などです。また、諸大名が将軍や幕府各所に書状を差し出す場合には、必ず事前に奥右筆がその内容を確認することになってました。つまり、書状が将軍や関係機関に届くか否かの判断を奥右筆が握っていたということです。ですから、諸大名は奥右筆の存在を恐れていたと言われています。このように、奥右筆の地位は低かったのですが、実務的には重職であったことが分かります。今でいうところの政策秘書に近い存在でしょう。

 

奥右筆は、当初は綱吉の側近数名でしたが、後に拡大され、宝暦年間(1751年~1764年)には17名程度まで増えています。また、奥右筆の待遇は表右筆よりも上で、奥右筆組頭は役高400石、役料200俵で、奥右筆の役高も蔵米ではなく200石高の領地の知行でした。

 

奥右筆、表右筆ともに若年寄支配の旗本役です。

 

高見澤

 

おはようございます。先週金曜日は、朝から当日の会議の準備で大忙し。瓦版をお送りすつ時間も取れず、失礼しました。今週も会議やその準備、経済界の訪中代表団派遣の準備などで大忙しで、どこまで瓦版をお届けできるか分かりませんが、できる限り努力していきたいと思います。

 

さて、本日は「巡見使(じゅんけんし)」について紹介していきましょう。巡見使は江戸幕府が諸国大名や旗本支配地、幕府直轄地の監視と情勢調査のために派遣した上使のことで、役職というよりは一種の制度と言えるかもしれません。巡見使は公儀御領(天領)及び旗本知行所を監察する「御料巡見使(ごりょうじゅんけんし)」と諸藩の大名を監察する「諸国巡見使(しょこくじゅんけんし)」の2種類がありました。

 

巡見使の始まりは、元和元年(1615年)に家康が3年に1度の諸国の監察を行う「国廻り派遣」の方針を打ち出したことにあるとされ、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光も同様に「国廻り派遣」を行っています。

 

巡見使の制度が正式に成立するのは、4代将軍・家綱の時で、寛文7年(1667年)に諸国巡見使の制が導入されてからです。その時の諸国巡見使は若年寄の指揮監督下とされ、使番1名を正使、小姓組番と書院番からそれぞれ1名ずつを副使とする3名に従者を合わせた総勢35名を定員とし、都合により数組に分かれて巡視を行いました。また、この時は江戸から大坂に至る浦々の陸路や西海道及び山陽道の国々の海辺を視察する「浦々」の巡見も同時に行われ、船手が巡見使に加えられたことはすでにお話ししている通りです。

 

5代将軍・綱吉は、将軍職に就いた翌年の天和元年(1681年)に諸国巡見使を派遣します。これ以降、例外はありますが新将軍就任1年以内の巡見使派遣が定着します。全国を8つの区域に分割して管轄地域を定め、各地の実態を「美政」、「中美政」、「中悪政」、「悪政」などと格付けして幕府の報告していました。中には悪政と評価され改易処分を下される者もあり、そのため巡見使に対する過度な接待が行われ、却って領民の負担が増えるなどの副作用も生じました。ただ、諸藩においては大名による自治が原則だったので、巡見使による監察にも限界があったようです。諸国巡見使による監察は、寛文7年以降幕末に至るまで8回行われています。

 

一方の御料巡見使については、寛文11年(1671年)に関東地方の代官及び農民支配を目的として関八州巡見使が独自に派遣されたのがその始まりで、正徳2年(1712年)に関八州から全国規模に拡大されています。それまでは諸国巡見使が公儀御領の巡見も行っていたようです。御料巡見使は、勘定奉行支配の勘定方と目付支配の徒目付から構成されていました。公儀御料は全国各地に散らばっており、11区域に分けて行われていました。正徳2年以降、天保9年(1839年)まで計7回の巡見が行われています。公儀御料や旗本領は幕府が直接管轄していることから、御領巡見使は諸国巡見使よりも強い権限が与えられていました。

 

高見澤

 

おはようございます。それにしても異常な暑さが続きます。早朝からの出勤も職場に着く頃には汗びっしょりで、まったくと言っていいほど涼しさの欠片もありません。この気候に身体が適応できない人も増えています。くれぐれもご注意ください。

 

さて、本日は、「徒歩組(かちぐみ)」について紹介したいと思います。徒歩組の「徒歩(かち)」とは「徒士(かち)」を表し、徒歩(とほ)で戦う下級武士のことを指し、職制は番方になります。江戸時代においては、士分に属し、士分格を持たない足軽とは峻別されていました。近代軍制に例えれば、馬上勤務が許される「馬廻り組」以上が士官とするならば、下士官といったところでしょうか。

 

徒歩組はこうした徒士から成る戦闘集団を指し、慶長8年(1603年)に徳川家康が9組をもって設置したとされていますが、その成り立ちは室町時代の「走衆(はしりしゅう)」にあるとされ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにはその存在が認められています。江戸幕府安定期には本丸15組、西の丸5組の計20組が設置されていました。

 

各組に頭1名、組頭2名、徒歩衆28名が配属され、徒歩組の長である徒頭(かちがしら)は若年寄支配、役高1,000石、布衣でした。徒歩衆は蔵米取りの御家人で、当初は抱席でしたが、文久2年(1862年)に譜代格になりました。

 

徒歩組の主な任務は、戦時においては将軍の親衛隊として前駆を務め、平時においては江戸城内の警備や支配勘定等の中間管理職的な行政職で、将軍が行幸の際には前駆して沿道の警備にあたっていました。また、日光奉行の手付等への出役も少なくなく、他の職に比べ昇格の機会に恵まれていたようです。普段は江戸城内の玄関、中ノ口に詰めていました。

 

この徒歩組が廃止されたのは慶応2年(1866年)のことです。

 

ところで山手線の駅名に「御徒町(おかちまち)」というのがあります。江戸時代、御徒町近辺には徒歩組の下級武士が多く住んでいたことから名付けられたそうで、長屋に住み、禄だけでは食べていけないので多くの者が内職をしていました。もちろん諸藩にも徒歩の職制があったので、城下町であればどこにでもある地名です。

 

高見澤

 

おはようございます。時の経つのも速いもので、今日から8月です。昨日の日中民商事法セミナーでのモデレーターの務めも何とか無事に終えることができました。自分がプレゼンするだけならば、他の人の講演の時間は比較的リラックスできるのですが、司会進行役となるとそうはいきません。それぞれの発表者に一言ぐらいはコメントしなければなりませんし、時間の管理もしないといけないので、中々気を抜くことができないからです。事前の準備もそれなりに大切です。

 

さて、本日は「定火消(じょうびけし)」紹介したいと思います。「火消(ひけし)」と一言でいっても、江戸時代には「大名火消(だいみょうびけし)」や「町火消(まちびけし)」など数多くのありました。火消についてはまた改めて紹介していきたいと思いますが、それだけでまた一つのシリーズができそうなほど、紹介することがたくさんあります。

 

火消の基本は大名による幕府への課役や町内の自治組織によるものでしたが、この定火消は幕府が設置した幕府直轄の消防組織で「定火消役」とも呼ばれていました。定火消が設置されるきっかけとなったのが明暦3年(1657年)の明暦の大火です。この経験から、それまでの大名火消程度では大火事には対処できないと痛感した幕府は、翌年の万治元年(1658)年に幕府直轄の消防組織を設置します。これが定火消です。若年寄支配の下、秋山正房、近藤用将、内藤政吉、町野幸宣の4名の旗本が「江戸中定火之番(定火消)」に任じられ、その配下にそれぞれ与力6騎、同心30名が置かれました。以来、定火消には3,000石以上の寄合旗本が任命されることになりました。与力・同心のほかにも、「臥煙(がえん)」と呼ばれる300人の火消人足おり、それらを雇う費用として300人扶持が加算されていました。

 

定火消に任命された旗本は、妻子とともに「火消屋敷」で居住することとされていました。火消屋敷は3,000坪の敷地があり、その中では緊急出動用の馬が用意され、高さ3丈(約9.1メートル)の火の見櫓、合図のための太鼓と半鐘などが備えられており、この火消屋敷が現在の消防署の原型だともいわれています。最初の火消屋敷は御茶之水、麹町半蔵門外、飯田町、小石川伝通院前に設けられていました。

 

当初4組で始まった定火消ですが、元禄8年(1695年)には15組に増え、その後宝永元年(1704年)には10組(定員1,280名)となります。このため「十人屋敷」、「十人火消」などとも呼ばれました。この時の火消屋敷は、赤坂溜池、赤坂門外、飯田町、市谷左内坂、小川町、御茶之水、麹町半蔵門外、駿河台、八重洲河岸、四谷門外にありました。その多くが江戸城の北西側に位置していますが、これは冬場に多い北西の風によって、火事が江戸城に延焼するのを防ぐためであったといわれています。

 

この定火消も、後に町火消の整備が進むとともに活躍の場を失っていき、寛政4年(1792年)には出動が限られ、消火範囲も小さくなりました。そして安政6年(1859年)には8組、慶応2年(1866年)には4組となりました。

 

定火消が設置された翌年万治2年(1659年)1月4日、老中・稲葉正則が定火消4組を率いて上野東照宮で気勢をあげて出初(でぞめ)を行いました。以降、毎年1月4日に出初式が行われるようになりますが、この万治2年の出初がその起源となったとされています。

 

高見澤

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