おはようございます。時の経つのも速いもので、今日から8月です。昨日の日中民商事法セミナーでのモデレーターの務めも何とか無事に終えることができました。自分がプレゼンするだけならば、他の人の講演の時間は比較的リラックスできるのですが、司会進行役となるとそうはいきません。それぞれの発表者に一言ぐらいはコメントしなければなりませんし、時間の管理もしないといけないので、中々気を抜くことができないからです。事前の準備もそれなりに大切です。
さて、本日は「定火消(じょうびけし)」紹介したいと思います。「火消(ひけし)」と一言でいっても、江戸時代には「大名火消(だいみょうびけし)」や「町火消(まちびけし)」など数多くのありました。火消についてはまた改めて紹介していきたいと思いますが、それだけでまた一つのシリーズができそうなほど、紹介することがたくさんあります。
火消の基本は大名による幕府への課役や町内の自治組織によるものでしたが、この定火消は幕府が設置した幕府直轄の消防組織で「定火消役」とも呼ばれていました。定火消が設置されるきっかけとなったのが明暦3年(1657年)の明暦の大火です。この経験から、それまでの大名火消程度では大火事には対処できないと痛感した幕府は、翌年の万治元年(1658)年に幕府直轄の消防組織を設置します。これが定火消です。若年寄支配の下、秋山正房、近藤用将、内藤政吉、町野幸宣の4名の旗本が「江戸中定火之番(定火消)」に任じられ、その配下にそれぞれ与力6騎、同心30名が置かれました。以来、定火消には3,000石以上の寄合旗本が任命されることになりました。与力・同心のほかにも、「臥煙(がえん)」と呼ばれる300人の火消人足おり、それらを雇う費用として300人扶持が加算されていました。
定火消に任命された旗本は、妻子とともに「火消屋敷」で居住することとされていました。火消屋敷は3,000坪の敷地があり、その中では緊急出動用の馬が用意され、高さ3丈(約9.1メートル)の火の見櫓、合図のための太鼓と半鐘などが備えられており、この火消屋敷が現在の消防署の原型だともいわれています。最初の火消屋敷は御茶之水、麹町半蔵門外、飯田町、小石川伝通院前に設けられていました。
当初4組で始まった定火消ですが、元禄8年(1695年)には15組に増え、その後宝永元年(1704年)には10組(定員1,280名)となります。このため「十人屋敷」、「十人火消」などとも呼ばれました。この時の火消屋敷は、赤坂溜池、赤坂門外、飯田町、市谷左内坂、小川町、御茶之水、麹町半蔵門外、駿河台、八重洲河岸、四谷門外にありました。その多くが江戸城の北西側に位置していますが、これは冬場に多い北西の風によって、火事が江戸城に延焼するのを防ぐためであったといわれています。
この定火消も、後に町火消の整備が進むとともに活躍の場を失っていき、寛政4年(1792年)には出動が限られ、消火範囲も小さくなりました。そして安政6年(1859年)には8組、慶応2年(1866年)には4組となりました。
定火消が設置された翌年万治2年(1659年)1月4日、老中・稲葉正則が定火消4組を率いて上野東照宮で気勢をあげて出初(でぞめ)を行いました。以降、毎年1月4日に出初式が行われるようになりますが、この万治2年の出初がその起源となったとされています。
高見澤