おはようございます。それにしても異常な暑さが続きます。早朝からの出勤も職場に着く頃には汗びっしょりで、まったくと言っていいほど涼しさの欠片もありません。この気候に身体が適応できない人も増えています。くれぐれもご注意ください。
さて、本日は、「徒歩組(かちぐみ)」について紹介したいと思います。徒歩組の「徒歩(かち)」とは「徒士(かち)」を表し、徒歩(とほ)で戦う下級武士のことを指し、職制は番方になります。江戸時代においては、士分に属し、士分格を持たない足軽とは峻別されていました。近代軍制に例えれば、馬上勤務が許される「馬廻り組」以上が士官とするならば、下士官といったところでしょうか。
徒歩組はこうした徒士から成る戦闘集団を指し、慶長8年(1603年)に徳川家康が9組をもって設置したとされていますが、その成り立ちは室町時代の「走衆(はしりしゅう)」にあるとされ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにはその存在が認められています。江戸幕府安定期には本丸15組、西の丸5組の計20組が設置されていました。
各組に頭1名、組頭2名、徒歩衆28名が配属され、徒歩組の長である徒頭(かちがしら)は若年寄支配、役高1,000石、布衣でした。徒歩衆は蔵米取りの御家人で、当初は抱席でしたが、文久2年(1862年)に譜代格になりました。
徒歩組の主な任務は、戦時においては将軍の親衛隊として前駆を務め、平時においては江戸城内の警備や支配勘定等の中間管理職的な行政職で、将軍が行幸の際には前駆して沿道の警備にあたっていました。また、日光奉行の手付等への出役も少なくなく、他の職に比べ昇格の機会に恵まれていたようです。普段は江戸城内の玄関、中ノ口に詰めていました。
この徒歩組が廃止されたのは慶応2年(1866年)のことです。
ところで山手線の駅名に「御徒町(おかちまち)」というのがあります。江戸時代、御徒町近辺には徒歩組の下級武士が多く住んでいたことから名付けられたそうで、長屋に住み、禄だけでは食べていけないので多くの者が内職をしていました。もちろん諸藩にも徒歩の職制があったので、城下町であればどこにでもある地名です。
高見澤