東藝術倶楽部瓦版 20180806:江戸幕府の地方監察制度-「巡見使」

 

おはようございます。先週金曜日は、朝から当日の会議の準備で大忙し。瓦版をお送りすつ時間も取れず、失礼しました。今週も会議やその準備、経済界の訪中代表団派遣の準備などで大忙しで、どこまで瓦版をお届けできるか分かりませんが、できる限り努力していきたいと思います。

 

さて、本日は「巡見使(じゅんけんし)」について紹介していきましょう。巡見使は江戸幕府が諸国大名や旗本支配地、幕府直轄地の監視と情勢調査のために派遣した上使のことで、役職というよりは一種の制度と言えるかもしれません。巡見使は公儀御領(天領)及び旗本知行所を監察する「御料巡見使(ごりょうじゅんけんし)」と諸藩の大名を監察する「諸国巡見使(しょこくじゅんけんし)」の2種類がありました。

 

巡見使の始まりは、元和元年(1615年)に家康が3年に1度の諸国の監察を行う「国廻り派遣」の方針を打ち出したことにあるとされ、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光も同様に「国廻り派遣」を行っています。

 

巡見使の制度が正式に成立するのは、4代将軍・家綱の時で、寛文7年(1667年)に諸国巡見使の制が導入されてからです。その時の諸国巡見使は若年寄の指揮監督下とされ、使番1名を正使、小姓組番と書院番からそれぞれ1名ずつを副使とする3名に従者を合わせた総勢35名を定員とし、都合により数組に分かれて巡視を行いました。また、この時は江戸から大坂に至る浦々の陸路や西海道及び山陽道の国々の海辺を視察する「浦々」の巡見も同時に行われ、船手が巡見使に加えられたことはすでにお話ししている通りです。

 

5代将軍・綱吉は、将軍職に就いた翌年の天和元年(1681年)に諸国巡見使を派遣します。これ以降、例外はありますが新将軍就任1年以内の巡見使派遣が定着します。全国を8つの区域に分割して管轄地域を定め、各地の実態を「美政」、「中美政」、「中悪政」、「悪政」などと格付けして幕府の報告していました。中には悪政と評価され改易処分を下される者もあり、そのため巡見使に対する過度な接待が行われ、却って領民の負担が増えるなどの副作用も生じました。ただ、諸藩においては大名による自治が原則だったので、巡見使による監察にも限界があったようです。諸国巡見使による監察は、寛文7年以降幕末に至るまで8回行われています。

 

一方の御料巡見使については、寛文11年(1671年)に関東地方の代官及び農民支配を目的として関八州巡見使が独自に派遣されたのがその始まりで、正徳2年(1712年)に関八州から全国規模に拡大されています。それまでは諸国巡見使が公儀御領の巡見も行っていたようです。御料巡見使は、勘定奉行支配の勘定方と目付支配の徒目付から構成されていました。公儀御料は全国各地に散らばっており、11区域に分けて行われていました。正徳2年以降、天保9年(1839年)まで計7回の巡見が行われています。公儀御料や旗本領は幕府が直接管轄していることから、御領巡見使は諸国巡見使よりも強い権限が与えられていました。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年8月 6日 12:53に書いたブログ記事です。

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