東藝術倶楽部瓦版 20180807:政策秘書の「奥右筆」、単なる事務官の「表右筆」

 

おはようございます。夏休みを取っている人がいるのか、普段に比べ電車が空いているように思えます。そうした中、台風13号が関東を直撃する可能性が高まっているようで、夏休みを計画している人にとってはとんだ災難かもしれません。

 

さて、本日は「奥右筆(おくゆうひつ)」と「表右筆(おもてゆうひつ)」について紹介したいと思います。そもそも「右筆(ゆうひつ)」とは「執筆(しゅひつ)」とも呼ばれ、中世から近世にかけて武家社会における秘書役を担う文官のことを指しています。最初は文章の代筆が本来の職務とされていましたが、次第に公文書や記録の作成など事務官僚としての役目を負うようになり、江戸時代には「祐筆」という表記も用いられていました。

 

織田信長や豊臣秀吉の時代には「右筆衆(ゆうひつしゅう)の制」が制定され、右筆衆は行政文書の作成のほか、奉行や蔵入地代官なども兼務していました。豊臣政権時代の五奉行であった石田三成、長束正家、増田長盛は秀吉の右筆衆出身でした。

 

戦国大名時代の徳川家にも右筆は存在していたと思われますが、家康の勢力拡大や天下掌握の過程で三河時代の右筆も奉行・代官等の行政職や譜代大名などに採用されるようになり、江戸幕府成立時には旧室町幕府奉行衆の子弟や豊臣政権の右筆、更には旧後北条家の右筆などが採用されていました。江戸幕府初期の右筆の職務は、将軍の側近として御内書(ごないしょ)・奉書の執筆や法度浄書などの実施、老中などの指示に従って公文書などの作成でした。

 

5代将軍・綱吉が館林藩主から将軍となった際に、綱吉は館林から右筆を連れて江戸城に入ります。綱吉は、従来の右筆に代わり彼らに自己の機密のことに関与させることになります。これにより従来の右筆は表右筆となり、館林から連れてきた右筆を奥右筆とする制度が確立しました。天和元年(1681年)のことです。その後、奥右筆に空席ができた場合には、表右筆から後任を選ぶのが慣例となりました。

 

表右筆の主な職務は、単なる幕府の書記役で、老中奉書や幕府日記、朱印状、判物の作成、幕府から全国に頒布する触書の浄書、大名の分限帳(ぶんげんちょう)や旗本など幕臣の名簿管理など限定されたものでした。表右筆の構成は、定員2~3名の表右筆組頭と30名前後(後に80名前後)の表右筆です。組頭の役高は300石、役料150俵、四季施代銀20枚で、表右筆の役高は蔵米150俵、四季施代銀20枚でした。

 

一方、奥右筆の主な職務は、幕府の機密文書の管理や作成、老中の諮問に基づく各種調査や意見具申などです。また、諸大名が将軍や幕府各所に書状を差し出す場合には、必ず事前に奥右筆がその内容を確認することになってました。つまり、書状が将軍や関係機関に届くか否かの判断を奥右筆が握っていたということです。ですから、諸大名は奥右筆の存在を恐れていたと言われています。このように、奥右筆の地位は低かったのですが、実務的には重職であったことが分かります。今でいうところの政策秘書に近い存在でしょう。

 

奥右筆は、当初は綱吉の側近数名でしたが、後に拡大され、宝暦年間(1751年~1764年)には17名程度まで増えています。また、奥右筆の待遇は表右筆よりも上で、奥右筆組頭は役高400石、役料200俵で、奥右筆の役高も蔵米ではなく200石高の領地の知行でした。

 

奥右筆、表右筆ともに若年寄支配の旗本役です。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年8月 7日 07:07に書いたブログ記事です。

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