東藝術倶楽部瓦版 20180808:江戸の武装警察-「火付盗賊改方」

 

おはようございます。今朝の東京都心は曇り、台風が近づいていることから雨を覚悟していたのですが、運良く濡れずに出勤することができました。それでも時々強い風が吹きますが、気温が低めで歩きやすい朝を迎えています。今日の昼間は強い雨の予報となっており、昼食に出るのがおっくうです。

 

さて、本日は時代劇でお馴染みの「火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)」について紹介したいと思います。火付盗賊改方は主に、江戸時代に重罪とされてきた火付け(放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博を取り締まった役職で、「火盗改(かとうあらため)」、或いは「火盗(かとう)」などと略して呼ばれることもあります。元々は先手弓頭や先手筒頭から選ばれた臨時の役職で、先手頭との兼職、いわゆる「加役(かやく)」として設置されました。

 

火付盗賊改方が設置されるきっかけとなったのが明暦3年(1657年)の明暦の大火です。明暦の大火後、江戸では放火犯や盗賊などの凶悪犯がはびこっていました。そこで幕府は、寛文5年(1665年)に先手頭の水野守正が関東強盗追捕に任じます。これが「盗賊改(とうぞくあらため)」加役の最初だと言われています。盗賊が武装集団であった場合、非武装の町奉行では対応できず、武力制圧するためにも武装組織が必要となっていたのです。中国の「武装警察(武警)」に相当するところでしょうか。その後、天和3年(1683年)には「火付改(ひつけあらため)」加役が設けられています。

 

元禄12年(1699年)、盗賊改と火付改は一度廃止され、その職務は三奉行の管轄に入りますが、赤穂事件のあった元禄15年(1702年)に盗賊改、翌元禄16年(1703年)に火付改めがそれぞれ復活し、更に正徳5年(1715年)に「賭博改(とばくあらため)」加役が設けられました。この3つの改加役を合わせる形で享保3年(1718年)に火付盗賊改が先手頭の加役として設置されることになります。この時、賭博改は町奉行の下に移管されたとの説もありますが、定かではありません。その後、火付盗賊改方は文久2年(1862年)に先手頭加役から独立して専任制になりますが、慶応2年(1866年)に廃職されました。

 

火付盗賊改方は、先手頭の加役でもあることから若年寄支配(後に老中支配に)で、任期1年の本役加役は2名、任期半年の当分加役が2名で、当分加役は火事の多い秋冬(9月~3月)に任命されていました。役高は百人扶持、1,500俵で、配下に与力1056騎、同心3050名のほか、町奉行と同様に「目明し(めあかし)」を使っていました。ただ、同じ江戸の町の治安を預かる者として、町奉行が役方(文官)であるのに対し、火付盗賊改は番方(武官)であったことから取締りは乱暴で、誤認逮捕や冤罪も多かったようです。

 

火付盗賊改方として有名なところでは、「鬼勘解由(おにかげゆ)」の名で知られている初代火付改・中山直守(息子の直房との説もある)や、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公、長谷川宣以(はせがわのぶため)がいます。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年8月 8日 10:31に書いたブログ記事です。

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